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♪ 信じて~ルンルンルン∽! [随想]

僅かに赤や黄色の彩りを増したプラタナスの街路樹・・・木漏れ日が爽やかな初秋の東京。 静かに、緩やかな安らぎのときの流れが、道行く人をゆっくりと包み込んでゆく。

・・・傷心でヨロン島との別れを心に決めてから、ひと月余が、しなやかな水の流れのごとく過ぎ去ってゆく昼下がり・・・新たな再生の芽吹きを、秋色の装いに感じ始めている。 それは、図らずも、今は遠き心の人・・・限りない慈しみと奥深く豊かな知性、そして、温厚で柔和な人柄を心に染み入るまで感じさせてくれた・・・SA様との出会いの時期を同じくする頃の出来事・・・で有ったことを記憶している。

高校時代に密かに、心を寄せていたマドンナがいた。 違う地区の出身、ヨロン島東部とのみ書いておこう。 2つ年下で、本当に清潔感漂う、優等生で明るく闊達な後輩、Sさん。 んんん、残念ながら、同学年ではない上に、会うための口実が無い。 多分、多くの筆者の同級生の男子諸君がそのような感を抱いていたのでは無いかと推察する。 みんなSさんの事を噂する。 学校で評判のマドンナであった。

・・・・チャンス到来! 筆者が部長を務めていた放送部に、その方Sさんが入部して来たではないか! また、筆者が所属していた音楽部にも在籍。 と、そのような事で、幸運にもマドンナSさんとは比較的に、自然な出会いの機会を数多く持つことができた、と思う。 ・・・・生徒会活動を通じて、ふれあう機会も多かったように記憶している。 

しかし、高校3年生となると、それらの諸活動から早々と手を引いて行かなくてはならない運命・・・Sさんは入り立ての新人・・・・困った! そうこうするうちに、文通が始まった・・・・ とはいえ、大した交際には発展しなかった事実がある。 そして、筆者は東京へ・・・ それども、ときは瞬く間に過ぎ、2年後に東京で再会することが出来た・・・・ 真っ先に、Sさんの下宿先を訪問した記憶がある。

そして、数回の親密なときがあり、更にSさんとの付き合いが予想された。 しかし、運命は本当に皮肉なもの・・・ 筆者が、ずっとトライしていた英国のオ大学 http://www.ox.ac.uk/ への留学許可の連絡が、Bカウンスル(英国文化振興会) http://www.britishcouncil.org/jp/japan.htm から届いた。 その年の秋には出発を前提とした、諸準備が急加速していった。 すさまじいばかりの勉強と準備が要求された。 

おのずと、Sさんとの音信が疎遠になりがちとなり、渡英の直前には、筆者にはまったく精神的余裕が無くなり、また、関西への一時、移動を余儀なくされたりと、遂に、再会の機会を失してしまった。 ・・・・ソビエト経有で1週間の旅の果て、英国オックスフォード・ワドムカレッジ http://www.wadham.ox.ac.uk/public の学寮の門をたたくことになった。

・・・そして、数年が過ぎ、とぎれがちのSさんとの音信が、遂に不通となってしまった。 それから、30数年が経ち・・・・ふとした事で、なんと、一緒に食事をする機会が天から降って湧いた! 出会いとはまさに、そのこと・・・・ たまたま、Sさんと同級生の知人Oさんとの会食が予定され、その当日に、実は、筆者とも旧知のSさんもお呼びしたいのだが、良いかどうかとの確認電話であった。 

Sさん・・・? とっさには、思い浮かばない・・・が、よくよく聞いてみると、あのマドンナSさんではないか! それは、もう、喜んで・・・・あとは、言葉にならなかった。 なお、半信半疑であった。 反面、こみ上げてくる懐かしさと嬉しさが交錯し、平静を装うことできたかどうか・・・分からない。 

聞けば、Sさんは最近、元の姓に戻られ、娘さん2人と東京の北部地域に引っ越しされて来たばかりで、大手教育塾に支店長さんとして勤務しているらしい。 Oさんは最近Sさんと、一度、お会いしたとのことであった。 Oさん自身も少し、興奮気味であった。 休みが思うような曜日に取れないことが原因で、同級生同士でも、なかなか時間が繰り合わせることが難しく、今回は、ラッキーだったとのこと。 

Oさんとは、何度か、いろいろと会食やお話をしている間柄、何の、気後れも無い。Sさんは、彼女の同級生の間でも評判の美人で優等生・・・ そして、大の行動家。 なかんずく、沖縄舞踊と天性の音感の良さはには、定評があった。 その事は、Oさんも承知の事実。 

埼玉県のK駅で待ち合わせし、筆者の車で、予め、予約された行きつけのイタリアレストランへ直行する段取りになっている。 さて、いよいよ、Sさんが改札口より・・・ mmm、黒のスーツ姿にエレガントにスリムな容姿は、東京で最初に出会ったプロポーションそのもの、より、洗練された面立ちが一層、Sさんの魅力を倍加させていた。 

「お久しぶりです・・・」 満面の笑みに洗練されたご挨拶で、突然の再会がなされた。 お互い、たわいもない挨拶で臆面も無い。 あれほど緊張とある種の不安感に襲われていたことが嘘のよう。 ごく自然な流れで話が弾んでいった。 それからの3時間は、車中を含め、レストランのコースメニューに舌鼓を打ちながら、ワインで最高に盛り上がった。 四方山話にも大輪の花が咲き乱れた。 

離縁に関しては多くを語らないが、結局は、修復不可能に近いお互いの人生観の相違に因るものらしい。 とはいえ、Sさんの、かつての朗らかで闊達な話しぶりや、気遣い、聡明さは当時と変わることが無かった。 これまでの人生の波風を乗り越えた年月の分、幅の広さと深みを感じさせた。

この思いいもよらないSさんを交えて、こんなにも最高な気分で食事できること・・・があるものだ。 まだ、夢見心地の感で、楽しいひとときを過ごした事を、いまでも明瞭に覚えている。 

あっという間の歓談から明けて、もう、ほぼ1年余が経つ・・・ 今はお互いに、それぞれの家庭の立場がある。 しかし、くしくも、Sさんと会食を共にした頃には、筆者は既に後半生へ向けて、一人旅立ちの準備中であった・・・ これも何かの運命の計らい? 

Sさんとの定期的な交流も、自然な形でそれなりに順調に進んでいった。 とはいえ、まだ、それぞれの歩むべき路を二人の共通の道として語るステージでは無いことを、お互いが、暗黙に、認識している。 お互いに、整理すべきこと、準備すべきことを少なからず、抱えていることをSさんも理解しているから・・・ それぞれに、今を楽しみながら、共に歩める最良のときを待つことにしよう。 

そう遠くはない日に、共に歩める可能性の芽生えを実感。 さあ、これからは運命の神様が、途中で方向指示器を変えない事を祈るのみ。 切なる願いである。 Sさんにも、その想いを感じ取ることができる。

信じてまっすぐに、お互いが歩み寄ること。 その日々の積み重ねが、総てを変えて実現させてくれる。 そう、信じたい。 まっすぐに、お互いを見つめ、信じて突き進みたい。 たとえ、直前で反転しても、信じて進む事を後悔しない。 そんなSさんであると、確信する。

それが人としての誇りであり、また、お互いに相応しい人生の伴侶と信じ合えることのバロメーターでもある、と堅く信ずるから・・・

                   

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☆イチョーキ長浜★夢枕☆ [随想]

少し先の折れ曲がった、細長い竹の棒がアイボリーカラーの砂のキャンバスを軽やかに滑って行く。 連日のように照りつける初夏の海辺は、島慣れした子供達にとっても暑く痛い。

ここはイチョーキ長浜。 そう、ヨロンを代表するパールホワイトの数キロにも及ぶ砂丘海岸である。 この一帯の、多くの子供達のお気に入りの通学路でもある。 また、潮の干満に関わらず、一般にも、親しまれ利用されていた。 この一帯の住民達の居住区と茶花の中心部(ヨロン島の中心部と言っても良いのだが)を最短距離で結ぶ生活幹線道路としての重要な役割を担っているのである。

しかし、風雨の強い日や台風のときには、そうもいかない。 そのようなときには、少し内陸の藪や雑木林を縫って走る一本の小径が唯一の幹線路として使われていた。 利用度の低い内陸路は、場所によっては藪や雑木の勢いに押され、亜熱帯ジャングルさながらの様相を呈していることもあった。 しかし、それは慣れた場所でハイキングコース宜しく、鼻歌交じりに小森の散策気分で楽しみ利用したものである。

この一帯の砂浜では恒例の浜競馬が初夏に行われていた。 ウジュン(ウプンジュ)川の西岸当たりをスタート地点として約1キロのコースを疾駆し優駿を競う、ヨロン島の一大イベントでもあった。 島のあまねく駿馬や駄馬が集められ、それぞれの部落の名誉をかけて競った。 

この普段は静寂な浜辺一帯が、時ならぬ競走馬の嘶き、鞭打ちの騎手の叫び、熱狂する観衆の怒号や歓喜の声・・・ モクマオ、タコの木やアダン等、よじ登れる限りの木々のてっぺんや沖合の小舟まで繰り出し、また、コース外の場所という場所は立錐の余地も無いほどの混雑で覆い尽くされた。 

ときには、予想外の場所にコースアウトし暴れ駆け回る駿馬にあわてふためき転げ回る観客も続出した。 そして、思わぬ大けがで搬送されて行く輩、泣き叫びながら逃げまどう女・子供達・・・ 悲喜こもごもとした、にわかに仕立てられた砂丘の壮大なドラマが繰り広げられ、喧噪の1日に総ての島民が酔いしれた。 この美麗で優雅に横たわる砂丘にも、そのような華やかで壮大な歴史の一頁が有った。

今となっては、夢のまた夢の世界に等しいイチョーキ長浜の宴。 ・・・おそらく、この光景が再現されることは、もう、永遠に無いであろう。

それから幾星霜、いまでは、競走馬はもとより、農耕馬を見ることも皆無に等しい。 ヨロン島からは、もはや、人と生計を共にする「馬」は消え去ってしまったのである。 いまでは、某ホテルが観光用に飼育している数頭がいるのみと伝え聞く。 かつては、ゆうに100頭を越えて飼育されていたものと思われる。 

人馬一体となり農耕や荷役作業に勤しんでいる、のどかな光景を、ごく当たり前の光景として見ることができた。 ・・・・これもまた、与論島における大いなる古き良き自然や種、そして、長閑な景観の消失の一つとなったと言えよう。

自動車や自転車が走行可能となるのは、まだ少し先の話である。 今では、想像もつかない長閑した時代でもある。 今や、コースタルハイウエイなるもの、そして、コンクリートの護岸やプロムナードが造られ、まさに当時を知る人にとっては、浦島太郎の世界・・・

大雨の後には、子供達にとっては一大事なでき事があった。 この地域一帯・・・ というよりはヨロン島では唯一といってもよい大川「ウジュン(ウプンジュ)川」がイチョーキ長浜を東西に分断していた。 その幅、普段は約10メートルくらいであったが、長引く雨や豪雨の後は最長50メートル近くに急拡大するのであった。 子供達が、いかに、この事態を恐れていたかは、容易に察しがつく。 

平時は靴を脱いで(もっとも裸足の子供が殆どで、その必要性は無かったように記憶しているが・・・)問題無く、その川を渡ることができる水量である。 しかし、台風や大雨の後は、その水量や水かさが数倍にも急増してくる。 当然、川の流れの勢いも数倍に激しくなる。 黄土色に変色した濁流はいきり立ち、白波をたてながら、一気に、海へ向かって突進する。 勢いを増した流れは更に河床をえぐり、子供達にとって、ますます渡河の条件を悪くしていた。 

必至の覚悟で子供達は2~3人が手を取り合い、浅めの渡河ポイントを足先で探りながら渡り始める。 リーダー格の先頭の子供が無事、渡りきったところで、大きな子供が小さな子供を背中や肩に乗せ、胸元まで衣類をあげ、当然、ズボンや下着は脱いで頭にくくりつけて、順次、渡りきる。 この渡河は、ある種、子供達にとっては、わくわくする冒険でも有った。 また、この事は彼らだけが経験的に習得した技術として、ひそかな誇りをもっていた。 

とはいえ、子供達にとって、この大河の反乱はじつに、憂鬱な出来事であったことも間違いない。 とりわけ小さな子供達にとっては、恐怖以外のなにものでもなかった。 幸いにも、大事に至った事故は無かったものと記憶している。

そんな光景は、江戸時代あたりの大井川を庶民が必死の思いで、川越をしている光景を描いた安藤広重の版画の構図を想起させる。 ・・・まさに、タイムスリップした感である。 当然、迂回路があった。 しかし、それは、川沿いに辿る細い道で、川渡りに較べて4~5倍くらいの時間を要した記憶がある。 よほどの事が無いかぎり、その迂回路を使用する子供達はいなかった。 

大干ばつの年を境に、乾燥し疲弊しきった田畑には、いっせいに砂糖キビが植農され、数年を経ずして全島に広まっていった。 収穫された砂糖キビを集荷し、新設の製糖工場へ搬送するためには、新たな道路整備は必須事業の一つとなった。 いわゆる、ロッキーロードの登場である。 そして、その道路網は、この頃から盛んに建設されるようになった。 全島に、見たことのない白亜の産業、生活道路網が、またたく間に拡がっていったことを記憶している。

川の水かさが増え、付近の水質汚染が始まったのは、与論島で初めての本格的製糖工場ができて間もなくの事であった。 これは、茶花地区とヨロン島の西端に近い兼母地区沖合の小島、「江が島」を取り込んで建設された、大規模商業港が開港した時期に付合する。 茶花中心街とこの新港を結ぶ産業道路が開通し、ますます、物流が激増していった。 そして、新たな南栄製糖工場の本格的な稼働は、冷却用工業用水の大量排出をも産み出すことになった。

ヨロン島に於ける環境・水質汚染の歴史は、製糖工場の稼働開始の頃に始まったと言えるかも知れない。 ウジュン(ウプンジュ)川やその水辺付近で、常に群れていた、数多くの汽水性の大小の魚たちも、この頃から次第に影を潜め、ついには、そのようなのどかな光景を見ることは殆どなくなっていった。

この時期を境に、イチョーキ長浜の通学路、交通の主要路としての役割は急速に減衰していったように記憶している。 新しく開通した幹線道路の稼働が本格化したからだ。 これはまた、従来の稲作農業から砂糖キビ生産への一大農業変革をも意味する。

官民をあげての農作物の転換が、一時期はこの島に富と繁栄をもたらした事実があることは、否めない。 そして、様々な公共事業がヨロン島の形骸を大きく整形し表面的な変化をもたらした。 ヨロン観光ホテルができ、湾岸道路が開通し、そして、護岸やテトラポットで埋め尽くされ、化石燃料の排気ガスを放散する元凶となるコースタルハイウエイが開通し、不要と思われるような人口レクレーションゾーン建設が行われてきた。

しかし、いま、その栄華の歴社は終焉を迎えようとしている。 そろそろ、セメントありきの無軌道で盲目的な外科治療は、施術前に熟慮し逡巡すべきときに来ているのではないだろうか? ・・・いま、新たな、真の島再生への変転を迫られている事実があるように思える。 

思えば農業変革の時期を境にヨロンを代表する美しい白砂浜海岸「イチョーキ長浜」の景観は、著しく変貌し翻弄されていく運命にあったのかもしれない。 

様々な楽しみを教え想いでを与え、子供心を豊かに慈しみ育ててくれたイチョーキ長浜から子供達や地域住民の足音が次第に遠のいていくのに、それほどの年月を要することはなかった。 そして、遂には、その長く美しい姿はまた、太古からの悠久な静寂のたたずまいに戻っていった。 

ギリシア・ミコノスの夢など、果たしてこの地の在りし日の無垢の自然に、どれほど匹敵するものがあると言えるのだろうか・・・・?

ヨロンよ何処へ行く・・・・・
 
茶花中央通りの西の終点はイチョーキ長浜との接点でもある。 中央道路とイチョーキ長浜東端のクロスポイントが旧茶花港。 この港は、与論島で唯一の商業港として、また、島外との往来のゲートウエイとして栄華を極めていた時代が有った。 

別離や再会を待ちわびて立ちつくす人々、荷さばきで込み合う広場、所狭しと行き交う人々の喧噪に満ちていた。 まさに、ヨロン銀座、いや、ヨロン島全域へ通じる物流網の起点として重要な役割を果たしていた要衝の地として記憶すべきである。

図らずも、筆者も、この港から複雑な思いで何度か旅立ちをすることになる。 いまなお、その記憶が鮮明に渦巻いている。 いまは、大幅に増築や改築が施され装いもミコノス風・・・ ときの流れを映して佇んでいる。 

現在のミコノス広場付近が茶花中央通り西端との接点・・・ そのランドマーク地点になるだろうか? 灰色に塗られ高くそびえ立つ繭精製処理工場の煙突が、かつてのランドマークであった。  ・・・ともかく、その辺りである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

イチョーキ長浜の東端に立つ一人の男の子がいた。 早々に学校を終えた3~4年生くらいの男の子が、思案顔で、鞄を両手にぶら下げて立っていた。 港には数隻のボートが、大きな干潮で砂地に乗り上げていた。 普段は視ることの出来ない、沖合まで珊瑚礁が顔を覗かせていたのである。 太陽は、まだ3時の方向。 

よし、今日はピシグンだ! ピシグン・・・子供達の磯探訪のキーワード。 思いっきり磯を駆け回り、様々な獲物をハンティングする。 大潮のときには子供から大人までのこのゲーム(生業とする人もいると聞く)に群れ興じる。

点在する程良い珊瑚や石を手当たり次第ひっくり返していく。 両手で岩穴、珊瑚や海藻を探りながら獲物を捜し追い求める。 大抵は、巻き貝、平貝や小魚が多いが、ときにはアワビやタコ、エビのような大きな獲物にありつくこともある。 まさに、自然の中でのゲームである。 ときを忘れて、男の子は帽子を片手に(網の代わりとなる)、磯辺ハンティングに興じる。 

・・・気が付くと全身が濡れねずみ・・・ でも、そんなことを気にする子は誰もいない。 それだけ子供達にとっては、かけがえのない、大切な楽しみのひとときであり、イチョーキ長浜と縁を持つ子供達だけに与えられた特権といっても良かった。 楽しみのときは瞬く間に過ぎてゆく。

さて、そろそろ帰ろう。 ・・・砂浜の中程にうち寄せられていた、古い竹棒の先を少し曲げて砂スキーを作る。 おもむろに、砂浜の中程に放り投げられていたランドセルを片手で担ぎあげる。 ヨイッショ・・・ さすがに動き回ったあとの鞄は重く小さな体にのしかかる。 それでも、磯ハンティングの興奮の余韻で、あまり苦になるほどの重さを感じることはなかった。 

自家用車よろしく竹棒を運転しながら、しばしの砂浜ドライブは、おきまりの、そして、お気に入りの日々の光景であった。 右に左にカーブ曲線の軌跡を残しながらショーファーよろしく、長浜を二分するウジュン(ウプンジュ)川の淵に辿り着く。 この川を渡りきると家まで、約半分の距離を来たことになる。 川向こうの波打ち際にはランドマーク的な岩が、どっしりと存在感を誇示している。

ジャブジャブジャブ・・・肌を刺すくらいの冷たい川の清水が心地よい。 しかし、さすがに飲めない。 川の上流で汚物や用を足す人を何度も目撃した事があるからだ・・・・いやだな! ここに辿るまで、幾重ものフィルターで浄化されているはずなのだが、はやり、飲む気にはなれなかった。 我慢・・・がまん。 のどの渇きを必至にこらえながら先を急ぐ。

よし、渡った。 あと残り半分の道のりと安堵した。 改めて、竹棒の先を砂上にセットし、いざ、出発進行・・・・・ サクサクッと、硬めの砂地にめり込む足音の心地よい響きが、浜辺の静寂の中にこだまする。 しばし歩を進めて行く・・・

おや? 人がいる。 ランドマークの岩の根っこの影で涼んでいる人がいる。 見慣れない若い女の人だ。 岩まで数メートルのところで、男の子はとまどい立ち止まった。 誰もいないはずの・・・ こんな所に人が涼んでいる。 一瞬、竹棒の運転の手をとめ、その女の人に目をやった。

            

    (現在のランドマーク岩はかつての白砂の衣を脱ぎ捨て
    緑の青海苔の衣装をまとい立つ)

と、その女の人も男の子に気づいたらしく、少し長めの髪を振りながら男の子の方に顔を向けた。 「こんにちは!」 男の子は狼狽した。 お姉さん・・・・ しかも、この土地の人では無いことが、すぐに、男の子の直感で分かった。 綺麗なお姉さん! それしか最初は頭に浮かばなかった。 タビンチュのお姉さんだ・・・・ しばしの無言の沈黙。 なぜか、男の子の顔がむしょうに火照ってきた。 表現し難い恐怖感も同時に襲ってきた。

そんな様子に気づいたのか、その綺麗なお姉さんは、ふたたび、「こんにちは、ぼくちゃん」と声を掛けながら立ち上がり小脇に茶色の小さなバッグを抱えながら近寄ってきた。 そして、次の瞬間、お姉さんの発したその一言で全身が凍り付いてしまったのだ。 ・・・男の子は、やっとの想いで「こんに・・・・わ」と言ったような気がする。 「ぼくちゃん・・・って、僕のこと?」  頭の中で、その言葉がグルグルと回転し始めた。 そんな事はお構いなしに綺麗なお姉さんは、優しく声を掛けてきた。

「ぼくちゃんは何処に行くの?」・・・ 少し間をおいて男の子は、 「う・ち・・・・」と応える。 と、男の子の倍くらいの背丈のあるお姉さんが急に白い腕を差し伸ばして、男の子の頭を優しく2~3回ほど撫でてくれた。 男の子は、少し、気持ちが落ち着いてきた。 そして、お姉さんは少し腰を落とし、男の子の顔の前まで自分の顔を近づけ、香りの良い吐息で、「あら、ずぶぬれじゃない。 大丈夫?」と、男の子の顔をそっと優しく両手で撫でてくれた。 

それまで嗅いだ事もない、なんとも心地よい香りが顔を包み込んだ。 男の子は、まさに、夢見心地そのもの。 あたかも、一瞬、魔術師に弄ばれている錯覚を覚えた。 そして、お姉さんは、やおら、バッグから小紋のハンカチを取り出し、耳元から首に掛けて吹き出ている汗と衣類の水を拭き取って、「これでいいかしら、どう?ぼくちゃん」 ・・・・ 「あ・り・が・と・・・」 精一杯の返答であった。

「ふーん、その竹の棒のお車の運転って、なかなか楽しそうね。」 ・・・一緒に歩きながら、男の子の竹棒車の運転ぶりを見ていたお姉さんが急に声を掛けてきた。 「私も、少し運転しながら、この浜の終点付近までご一緒して良いかしら?」 「・・・いいよ」 いかにも、ぶっきらぼうな返答であったが男の子にとっては頭が錯乱気味のなか、しどろもどろながらも探しうる最良で丁寧な表現。

学校の先生以外には、ましてや、見ず知らずの綺麗なナイチンチュのお姉さんなどと標準語で話したことも無かった。 また、夢にもそんなことがあろう等とは考えた事も無かったから、無理もない話ではある。

「こんなふうにすれば良いかしら? うん、なかなか面白いわねこれ・・・どう、上手?」などなど、いろいろと質問攻め。 男の子も次第に緊張がほぐれ話が少しスムーズになり、お姉さんもこの竹棒車の操縦と乗り心地に魅了されたようであった。 

真珠色の砂浜と重なり、竹車を運転する腕に夏日が射し、その白さが、ますます際だってより白く輝いて見えた。・・・まだ、見たことの無いゆ・き・もこのように白いのかな・・・ 男の子は頭の中で呟きながら、お姉さんの白く輝く腕を見つめながらお姉さんの脇を先に後にと歩いていた。 男の子は、なぜか、急に胸の鼓動が早くなり一瞬苦しさを覚えた。 目を波打ち際にで静かに泡立つ波に向けると、少し、気分が楽になってきた。 

もう既に潮が満ち、先ほどまで見えていた磯の海原は、血の気の引いたような淡く青い水面で覆われていた。 そろそろ、長浜も終点を示す沖合まで突き出た岩と磯のランドマーク地点に到達する。 この辺りは今では、コースタルリゾートのプレジャーボートやヨットのベースとなり、当時の面影は皆無に近く変貌してしまっている。

「あ、もう、そろそろ長浜が終わるわね。 あそこの岩場で少しお休みしましょう。 いい?」 誘われるまま、磯の原を見下ろす少し高めの岩場で、程良く平らな岩場に並んで腰を下ろした。 「ねえ、ぼくちゃん歌は好き?」 ・・・・て、言われても、と思いつつ・・・「うん、好きです」って応えてしまった。 「そう・・・ では、どんな歌が好き?学校の歌?それとも・・・・」 すかさず、「うん、学校で習っている・・・我は、海の子」

とっさに、浮かんだこの歌は、つい、先日、紙芝居を見せながら先生が歌ってくれた歌で、授業でも練習した曲。 紙芝居は、江ノ島で多数の生徒がおぼれるのを救出する最中に波に飲まれて命を落とし、帰らぬ人となった先生のお話(実話)であった。 男の子にとっては、とても感銘する曲でもあった。

「あ、それ、いいわね。 ぼくちゃんにぴったりの歌よね。 一緒に歌いましょう?」 「・・・・う・・・ん。」 恥ずかしい限りである。 良くは覚えていないし、歌が得意な訳でもない。 ましては、美人のお姉さんと一緒に歌うなんて・・・・ 周りで、誰かに見られているとよけいいやだな・・・・・なんて、雑感多々をよそに、お姉さんが歌い出した 「・・・わーれーは、うーみのこ・・・しーらなーみーの・・・・」

玉のようなソプラノ・・・ 聴き入っていると、 「ほら、ぼくちゃんも歌ってね」 という合図に誘われて小声でボソボソとついて歌い出す。 お姉さんはスキャットやハミングで伴奏し男の子の歌を促し始めた。  そして二部合唱へと・・・ いつの間にかお互いの歌声が楽しく高く弾んでいた。 朱からオレンジに装いを新たにした夕陽が岩場の二人に柔らかなスポットライトを当て、長いシルエットを映し出していた。

どれくらい時間が経っただろうか・・・・ 初夏の暑かった陽が柔らかい西陽に変わり、長い茜の手が岩場の二人を掴んでいた。 まもなく、いつもの夕暮れの重く暗い緞帳が降りようとしている。

「・・・あら、もう、こんな時間ね。 また、もと来た路を戻らなくっちゃ。茶花の町中の旅館に泊まっているのよ。 ぼくちゃん・・・きょうは、とっても楽しかったわ。 いい、思い出になったわ。 有り難うね。勉強も歌も楽しんでね・・・ぼくちゃん」 「あ、そうそう、これあげるわ。 使ってちょうだいね。」 と言って、さきほど汗を拭ってくれた淡いピンクの小桜紋のハンカチを、両手の中に押し込んで渡してくれた。

そして、ナイチンチュの美しいお姉さんは別れ際に、男の子の坊主頭を撫でながら、「また会える日があるといいわ。 でも、今度、会うことがあっても、きっとお姉さんは、あなたが分からないかも知れないわね。 きっと、大きく立派なお兄さんになっているわね。・・・そう信じているわ。」 しばし、声がつまり、男の子の頭からゆっくりと手が離れた。 その暖かい手のぬくもりの余韻が・・・今でも伝わってくる。 

そして、お姉さんは「さようなら」を残し、二人で刻んだ砂浜に残る蛇行する軌跡を、また、ゆっくりと辿りながら帰って行った。 途中、2、3度ほど両手を大きく左右に振り、ついには、イチョーキ長浜の夕闇の中に吸い込まれ消えていった。 

・・・男の子は、その場に佇み、いつまでも美しいお姉さんの後姿を見つめ続けていた。

遂に二人は、お互いの名前も知らず、詳しい素性も聞かず・・・・ 二人の偶然の出会いを、自然な成り行きで楽しみ、そして、別れた・・・・ それが、人と人との出会い・・・ そして、別れ・・・ 運命

イチョーキ長浜がとりもってくれた出会いと別れ・・・・

会うは別離の始まり・・・ 遠い日の胸に迫る想い出は、ときを越え、いつまでも
つい昨日の出来事のよう。

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