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☆ユンヌに呼ばれて ♪ ★ [ヨロン島]

私、与論島へ移住したく思っていますが、実は一度も与論島に行ったことがありません。



不動産情報を知りたいのですが、緑の多い場所で、出来れば高台で探したいのですが、アパートとなると相場の家賃をお知らせいただければ幸いです。また、体験移住の情報をお知らせいただければと思います。



私は、現在セラピストとして活動しておりますが、20年のキャリアを持つ看護師でもあります。いざとなったら看護師としての仕事も考えております。よろしくお願いいたします。



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1.Date: Sat, 12 Jun 2006 00:21:10 +0900

こんにちは!



与論島移住の問い合わせをしました川奈麻美と申します。 このたびは、早々のご返答をありがとうございました。 また、ご丁寧な内容でとても満足しております。本当にありがとうございました。



一度も行ったことのない与論島ですので相手にされないのでは?とも思いましたが、本当にありがたい情報で助かりました。 変な話ですが、突然、『与論島!』と思ったのです。場所も良くわからず、なんの情報もないのに・・・埼玉県に在住している両親に話をしたら、なんと、両親も沖縄付近の小さな島へ移住したいと考えていたとの事で、とりあえず私が先に移住をしてみることとなりそうです。



今後も、何かと洋様に問い合わせることがあるかと思いますが、よろしくお願い申し上げます。




つきましては、与論島のDVDをお願いしたく、明日、¥500分の切手を送りますので、到着後、よろしくお願いいたします。




本当にありがとうございました。今後ともよろしくお願い申し上げます。

まずは、お礼方々ご挨拶申し上げます。




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2.Date: Sat, 17 Jun 2006 00:24:10 +0900

ヒロシ様




札幌も雨続きで、梅雨が来たようです・・・




DVD昨日届きました。ありがとうございました。切手が届かないうちに送ってくださって、もう頭が下がりっぱなしです。




私は15歳まで越谷で過ごしたのですよ。高校入学から学校の寮生活が始まり、越谷から出ました。 看護学校を卒業して、聖マリアンナ医科大学病院に10年勤めました。その後、札幌の病院に引き抜かれてこちらに来ました。10年働いたところで、燃え尽き退職をしました。



4年間もがき苦しみ、やっと、燃え尽き症候群から立ち直ったところです。随分と時間がかかりましたが、私にとっては必要な時間だったようです。

結婚もせず、ただただ走り続けた20年でした。



医療の最先端でがむしゃらに看護をしながら、本当にあるべき姿なのだろうか?と疑問も持ち続けていたのです。古川先生のDVDを見ながら、私の求めている看護を感じたように思います。



与論は、本来人間が生きる姿なのではないか?と感じるのです。北海道に来てアイヌ民族を知り、アメリカでも、オーストラリアでも先住民族が迫害されました。私は先住民族から人間のあり方を学びました。確かに現代はとても生きやすいのですが・・・毎日のように報道される殺人、マネーゲーム・・・欲にまみれた人間・・・とても悲しくなります。



私にできることなんて何もないけれど、日本のなかにまだ残っている与論島の人々の生き方を学びながら、少しでもお手伝いできれば・・・なんて思うのですよ。自然の中で、のんびり看護をしながら、人生の伴侶を見つける余裕を持ちながら、のほほんと生きたいなぁ~なんて思います。



本当にありがとうございました。また、近状報告しますね。ハワイも惹かれますね~。英語あんまりしゃべれないからなぁ・・・ぶつぶつ。



ヒロシ様も梅雨で体調を崩されませんようにご自愛くださいね。



敬具



川奈麻美



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3.Date: Sat, 24 Jun 2006 17:30:36 +0900
ヒロシ様



札幌も今年は梅雨のような日々が続いています。今日は1週間ぶりに太陽が顔を見せてくれました。



太陽電池で動いている私は冬眠から覚めたようです。(冬眠から覚めると元気すぎるのだけど・・・ははは)



ヒロシ様、貴方のメールにはホント力付けられます。ありがとうございます。ヒロシ様も色々あったようですね。だから暖かさが伝わってくるのですね。



さて、いざ行くとなるとさまざまな障害が出てまいりました。が!私の心は与論島に向かっているので頑張るぞー。



一度、与論島に行ってこようと思っています。会っておいたほうが良い方はいらっしゃいますか?役所で移住するにはどうしたら良いかはたずねるつもりですが・・・そして、お手ごろなツアーなどご存知であればお知らせ下さい。



余談ですが、私の友人に与論島の件をお話したら、その友人がきっかけで時々お会いする友人も与論島に移住する予定だと知らされ、なんとも奇遇だな~と驚いております。彼女たちは10月ごろをめどにしているようですよ。今度ゆっくりお話を聞いてこようと思っています。



彼女たちとは、本当に何ヶ月かに1度会うぐらいの方々ですが、なにかとても縁があるように感じる方々で、その生き方や、ものの捕らえ方、人との関わり方には学ばされることも大変多い方々なので、私もとても嬉しく思っています。 何か・・・神に導かれているような・・・そんな感じがします。



バリは山もあるのですね。私は、太陽と森林からエネルギーをもらっているので、与論はちょっと森林が足りないかしら?と不安材料もあります。大学病院を退職したとき、バリで働かないかと言われ、かなり迷ったことがありました。いずれバリにも行ってみたいと思います。



やっとこサッカーも終わりました(まだ終わってないけれど)サッカーサッカーでちょっとうんざりしていました。



私は、20代はサーフィン、30台からスキー・スノボーで明け暮れました。スポーツってやるとめっちゃ楽しいので、もっぱらやりまくりで、観戦はほとんどしません。変わっているんだろうな・・・



与論島に気持ちが向かうようになってから、私の心は大分変化しています。まるで子供時代から現在に至るまでに学んだ全てのことを統合し成長しているような・・・どうしても超えられなかった壁が次々と越えられているような・・・良くも悪くも影響を与えてくれた私に関わってくれた全ての人々に、心から感謝が出来る、そんな気持ちが私の中からどんどん湧き出てくる・・・そんなありがたく気持ちの良い学びが出来ています。不思議ですよね・・・




本当にヒロシ様、与論島で、または東京でいつかお会いできる日が訪れますように・・・楽しみにしています。



川奈麻美



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4.Date: Mon, 3 Jul 2006 11:05:47 +0900

ヒロシさま



札幌も、やっとお天気の日が続くようになりました。我が家から見える木々も喜んでいるように見えます。



お返事ありがとうございました。



ツアーを散々探し、プリシアリゾートステイにしました。決めてからロイ様のメールが来て、びっくりいたしました。どこかで繋がってる?うふふ。7月10日札幌発です。7月12日には実家に行きますが、13日札幌に戻ります。



まずは、与論に出向いて、感触をつかんで参ります。自分の直感を頼りに・・・



ライフステージプラン・・・持っていません。(ガーン) 何か・・・病院を退職するまでは、自分の理想の看護婦像に完璧になれるよう頑張っていました。使命感に縛られ続けていました。



燃え尽きた後、本当の自分を探す旅となりました。今、やっと本当にやっと、オギャーと生まれたような感じなのですよ。気持ちよく過ごせることを当面の目標としています。



北海道は、自然の多い素晴らしい場所です。とても厳しいけれど美しい冬、雪に埋もれた木々の生命の強さ、ゆっくりと流れる季節、それはそれは素晴らしいです。



ただ、パワーをもらえる土地と、エネルギーを吸い取られる土地があり、私にとってはエネルギーを吸い取られる土地のほうが多いように感じます。



不思議なのですが、アイヌ民族のことなど何も知らないのに、民族の想いが私の心の中にすーっと入ってきて、大泣きして、心から謝罪したことがありました。このことで、狩猟民族なのに、狩猟を禁じられたことなど、和人から迫害されたことを知るきっかけとなったのです。



クルーズですか・・・ヒロシさんは何でもするのですねー。凄いな。その夢、私も混ぜてくださいね! テニスは私も気になっています。ゴルフはとてもやりやすい環境にいるくせにさっぱりです。サーフィンはもう体力がついて行きません。素もぐりでもするか・・・



本当に、ヒロシさんとは、一度お目にかかりたいと思います。いつか・・・お会いできることを楽しみに・・・



東京は暑い日々が続きます。くれぐれも体調を崩されませんよう、ご自愛くださいね。



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5.Date: Tue, 4 Jul 2006 03:58:58 +0900

ヒロシさま



与論へは7月10日~12日。埼玉12日~13日の予定です。 (せっかちなのです)



うんうん。私も、旅はぷら~っと、あまり情報収集せず向かいます。自分の感覚に頼ることと、地図には強いはずなのに、なぜか迷子になって、だからこそ必要なものは見せてもらえるから。



物怖じしない性格だし、困ったときは人に聞く。これでだいたいその土地に自分が受け入れられているかわかるのよね・・・ 楽しんできます。



帽子なんて持ってないわ・・・だいたい、今年はまだ半袖も着ていないのに・・・何を着て行ったら良いのやら・・・完璧、焦げます。暑いのにも体がびっくりするかもね。
 
ひーーー



ヒロシさん・・・私、英語はさっぱりです。私の周りは黒人だらけなので、優しい言葉ならなんとか聞き取れますが、さっぱり話せません。このHPって、ヒロシさんが作っているのよね・・・プリシアの産みの親って?いったいヒロシさんは何者?でしょう???



ううう・・・英語が話せたら迷わず海外に行きます。アメリカのスキー場で、一番暖かい手袋を下さいと言いたくて『ホットグローブ』で通じなかった・・・今でも謎だわ。



それでもお気に入りを見つけてゲットしてきましたが。(あきらめない人なんです)遊びに行くには身振り手振りとスケッチでなんとかこなすけど・・・私にとって宇宙語です。



夢を膨らませながら寝ます。札幌はもうしっかり太陽が出ました。
 
おやすみなさい  zzzzz



かわなあさみ



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6.Date: Wed, 19 Jul 2006 00:36:22 +0900

ヒロシ 様



こんにちは。 札幌に戻ってみると、札幌もいきなり夏になっていましたが、湿度がとても高く気持ちが悪いです~



さて、ヨロンは不思議なことが沢山起こりました。



まず、札幌から羽田に向かう飛行機の中で『やっとここまで来れた』と言う感情がわーっと噴出し、涙がポロポロ出てきました。ここまで来れたって?ヨロンに向かうことが出来たことなのか?なにか魂の成長をさしているのか?初めから決められたプログラムだったのか?



良くわからなかったのですが・・・そのうち解るときが来るだろう・・・ぐらいの受け止めで、出る涙は出させておきました。



旅は続き、次に沖縄からヨロンにむけて飛び立ったとき、もうもう大粒の涙がボロボロ溢れ出し、感情はもう言葉では表現できない感じで、魂から湧き出るなにかのような・・・とても不思議な感覚に落ちました。(何だったのでしょう?)



島では、今回の目的は情報収集でしたので、原チャリを借りて、島巡りと畑で作業するおじさんA ・B・C、野菜を売ってるおばさんと、高校生の3人組など、それぞれ時間をかけお話して、触れ合ってきました。



ついでに、観光客にも声をかけ、お話してみました。観光客はリピーターが多く、中にはヨロン移住を考えている方にもお会いしました。



島巡りをしながら、暑くなったら、その辺の海にドボンと浸かり、また島巡り・・・おかげで、焦げました。UVケアーはしていましたが・・・只今、脱皮しています。



その他、病院も全部見て歩き、患者さんに話を聞いたりしてきました。 夜は、役場の方が飲みに連れて行ってくれました。そこで、スピリチュアルなお話をしたり・・・不思議な出会いがあったり・・・



とにかく、めっちゃ忙しく、睡眠時間も2時間程度で頑張りました!



感触は、島に呼ばれてる?って感じがしました。私が行くことで何かお役に立てることがあるのかしら?と感じたのです。



マリンスポーツを楽しむ余裕はなかったけれど、島にいる間はとても精力的に活動し、やる気満々でした。こんな旅をしたことがなかったので、新しい自分の発見が出来ました。



札幌に戻ってみると、いきなり、気分は落ち込み、わけもなく活動停止どころか鬱状態に入り、ああ~本当に札幌が合わなくなったのだなぁ~と感じさせられました。



両親にも会って来ましたが、父の体調があまり良くないようで、移住にはどうか?と思いました。実家の近くに戻り、彼らの側にいたほうが良いのか?とても考えさせられました。




まだ、結論は出ていませんが、私は、高校生の頃から家を出ているので、彼らの側で親孝行をしたいと思うのですよ。父の夢であった南国の島暮らしを実現させてあげたいとも思いますが・・・体力的にも難しいような気がして、とても難しい選択です。



ヨロンから帰ってきたら、色々悩んでもヨロン島に行くんだろうな。ヨロンの後はバリだなとふっと思うことが度々あります。そして、そんな人々が私の周りに集まりはじめました。




私の夢は勝手に一人歩きをして私の気持ちを無視してどんどん向かうべき方向に進んでしまっているような・・・とても不思議な感じがしています。



どんな土地でも、どんな天気でも左右されない心がほしいわ~と思うこのごろです。



ヒロシさんのご両親はご健在ですか? 私は、ずーっと独身なので、とても身軽ですが、年老いた両親を見ると心が張り裂けそうになります。



ついでに、我が家には年老いた猫もいて、この子もいつお迎えが来てもおかしくないので、猫ですら心が砕けそうになります。誰よりも死を見つめてきたのに・・・私も死のふちに何度か立たされ、臨死体験もあったのに、自分が死ぬことより、大切な人々の死のほうが怖いと思います。こういう感情は嫌なものですね・・・後悔しないような選択をしたいと思います。




長くなりました。 そちらはかなりお暑いのでしょ?世界中を飛び回っているヒロシさん、どうかお体には充分お気をつけくださいね。



麻美



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7.Date: Sat, 22 Jul 2006 13:31:41 +0900

ヒロシさま



札幌は7月に入ると毎週金曜日、花火が上がります。久しぶりに、花火を見に行きました。長袖ブラウスにGジャンってどうなの?と思いながら・・・(花火だけど・・・さぶっ) ちまたでは土砂崩れで大変なのに、私はのんきです。



ヨロン・・・風は強かったのですが、ピーカンでした。私、強力な晴れ女なんですよ。友人からも長方されています。えへへへ。



・・・そうですか、ヒロシさんは色々大変だったのですね。ヨロンの方でしたか・・・生まれたときから宿命を背負って来ている方も沢山いらっしゃいますが、ヒロシさんのように力強く生きていらっしゃる姿を拝見すると、人間って素敵だなと思います。私なんかが想像も出来ないほど、ご苦労があったでしょうに・・・ね。



先日、ヒロシさんって何者?と思いHPを覗きました。本来、私はあまりそういうことはしないのです。自分の感性を大事にしたいので。先入観を持ちたくないのですね。見てびっくり!ひー。凄い人だったんだー。って思いました。



普段、私は、メール交換などほとんどしません。友人とも連絡事項のみです。それが、ヒロシさんとはこうしてメールのやり取りをして・・・沢山、ご苦労した分、人間の深みがあるのでしょうか、優しさや包容力の大きさが文章からも伺えます。だからこそ、ひきつけられる魅力があるのですね。



なぜ、ヨロンなの?是非是非教えてください。もっと、ヒロシさんのことを教えてください。聞いては失礼かと思いますが、ヒロシさんのご家族のことなんかも知りたい知りたい・・・ぞ。(私、知りたがり屋なんです)



私は、とても勝気で気が強く、傲慢でした。可愛げのない子でした。自分を見つめる時間を与えられ、角が取れたと言うか、素の自分に戻れたと言うか・・・人間嫌いだと思っていたのに、実は大好きだったんだとわかったのです。



私の一方的な両親との確執もありました。今、私は両親の子供として生まれてきて良かったと思うし、私が彼らを選んで生まれてきたのだな・・・と思います。感謝の気持ちで一杯なんです。



ヒロシさんじゃないけど、越谷は私にとって浦島です。(笑)



人を大切に思えることはとても気持ちの良いことですが、好き勝手できなくなりますね・・・ 


私がどの道に進むかは、今はあまり考えないようにしています。将来のことも。自然の流れが出てくるので。どこの地に行こうとも、何をしていようとも私が何を大事にしていくかが一番大切なのかな。と思うのですよ。気持ちひとつで私がいる場所は楽園になります。



ただ、合わない土地も出てくるのですが、土地が合わないのか、見えない宇宙の偉大な力が、私に転機を与えているのか・・・おそらく後者なのでしょう。言葉で解りやすく言ってくれ!と思うことがたたあります。



私が札幌を離れる時期だと感じたので、こうしてヒロシさんとも出会えたわけですし・・・ね。宇宙の力(人は神と呼ぶのでしょうね)は凄いな・・・と思います。



どちらを選択したとしても、ヒロシさんとはいずれお目にかかれますね。越谷ならヒロシさんの会社の近くですし。ふふふ。不思議ですね。



宗教って難しいですよね。私は、3人の牧師(外人さんと日本人)のマネージャーもしているんです・・・キリスト教ってちょっと縁があるのですが、私の捉え方とかなり違ったこともあるので、私は無宗教です。私の周りの牧師たちはクリスチャンになれと強要もしないのでやってられるのですよ。宗教って所詮は人間の手が加わっているからね。と思います。・・




ヒロシさんがどこかの宗教を崇拝していたらどうしましょう・・・ごめんなさい。



では・・・また。 直でお話したい?どうぞどうぞお気軽にお電話下さい。 夏です!札幌に涼みにいらして!ふふふ。本当にお目にかかれる日を楽しみにしております。



麻美



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8.Date: Mon, 24 Jul 2006 12:27:21 +0900

ヒロシ様



札幌は花火早いのよ。5月のリラ冷えを過ぎるといきなり夏になります。冬、雪に閉ざされた人間は性格も閉鎖的ですが、夏になると人間も開放的になります。人間って本当は暖かい地域で過ごすことが本来の姿なんではないか?と思うほど・・・



7月に入ると、気分は夏休みで、はじけてしまうのです。花火を8月なんて待てないといったところでしょう。梅雨もないので、暇って言えば暇なんですね。ははは。



北海道は、雪に閉ざされた冬も見ごたえがありますが、夏の緑盛んな時期も良いですよ。世界遺産は知床です。が、あそこは、真冬になると入れなくなるのですよ。雪で除雪されない地域なのです。あっ!世界遺産になってからは入れるようになったかも知れませんが・・・



夜の銀座・・・「すすきの」ですね。私はほとんど行きませんが、エネルギーが怪我されるように具合が悪くなります。それでも、外人さんのよく集まるバーやディスコには行きます。ってか連れて行かれちゃうのよ。



私は、ゴスペルをやっているのですが、キャバレーに歌手のバックコーラスでお仕事をしに行ったことがありました。純情可憐な私には刺激的でした。ぎゃはは・・・嘘です。でも、こんな世界もあるんだな・・・と。女の子はそういうお店に入れませんから・・・



ヨロンの方々は、島中知り合い?って感じですよね。そして、人が良い。お話好き、で、ちょっと恥ずかしがり屋さん。ヒロシさんが訪れたら、それはそれは、大事件でしょ?ぶっはっは。誰もほっといてくれませんよ。そんな人情も深い人々なのでしょう。刺激もほしいんだなと感じましたよ。



こっそり行ってこようなんて土台無理な人々です。私だって、島を知るには役場!と思い、行ってみたら夜の接待ですよ。ただの観光客なのに・・・あそこの人々は凄いです!良い意味で。



オーブ・・・私は見たことがありません。が、木々の多いところに行くと思いもしない考えが浮かんだり・・・神様が降りてくるような感覚になります。私は林や森林がなくては生きていけません。天使や精霊とのコンタクトを取る感じかな。答えをもらえるしね。



ただ、私の場合、エネルギーの場が見えるんですよ。時々、金色の小さな珠がヒューヒュー飛んでいることもあります。(人にはほとんど言いませんが)それがオーブなのかは不明です・・・



私の神秘体験については、そのうち機会があれば、ゆっくりお話しましょう。



私の住いはどこを見ても林です。おかげでカーテン要らず。ふふふ。 私の一日は、そんな木々を見て、コーヒーを飲みながらボケーっとすること、木々の気持ちが伝わってくることがあります。その後、瞑想して・・・お祈りして・・・一日が始まります。出かけるまでに3時間はかかりますね。



パートナーですか・・・ずっと私はパートナーがいないので、寂しいとか全く思わないのですよ。これはまずい!と思いますが・・・恋愛もどうやってするんだっけ?デートってどんなもんだったっけ?これまた浦島です。決して、もてないわけではないのだが・・・



友達は男性のほうが多いのですが、彼等いわく、見た感じ女の子らしいが、頭は男だ・男より男らしいなどとと良く言われます。先日、家に帰ったとき、母にまでそう言われてガックリ・・・どこがいけないんだか・・・さっぱりしすぎ?



唯一欠けているもの・・・と私も感じてみたい。神は必要なとき、必要な人を私に与えてくれます。私に必要ならば、パートナーも与えられるのでしょう。そして、これまで独身だったのにもちゃんと意味がありました。これから、どんな出会いがあり、どんな人生を送ることになるか・・・楽しみですよ。



宗教については、私もちょっと学びました。独学ですが、宗教・哲学・精神世界・・・全て言っていることは根本的に同じだと感じました。



私は、子供の頃から独自の神の捕らえ方があるのです。私には、宗教は必要ない。心の中に刻まれているから・・・でも、神の存在はあると思っているし、日々コンタクトを取るようにしています。



人それぞれの神の形があって良いと思うし、宗教で救われるならそれも良いと思っています。人々が幸せになれればね。



最近、特にヨロンへ気持ちが向かい始めてから、偶然の一致・共時性が多く出てきました。おそらく、私はヨロンへ行くことになるのでしょう・・・ この、共時性が何を意味しているのか、まだ解りませんが、私に課せられた何かが待ち受けているのかも知れませんね。




私は、先入観って持ちません。その人が何をやってきたか、何をしている人かは、私には問題ではなく、その人の魂が何を求めて、何を大切にしているかが重要なことに感じます。お会いするとその方が持つ潜在意識みたいなものを感じ取れるのですが・・・



実際、友人たちは、知り合ってややしばらくして『凄い人だった』という方が多いのですよ。だからといって何も変わりません。



自分を誇示したくて、ライセンスで埋め尽くす者も、悲しいけど多いでしょ?本物は自然と結果が付いて来ちゃうのよね。接すれば本物かどうかはわかります。



ビジネスの流れの中のお付き合いでしたか・・・ 私は、とっくにその域を超えていました。ごめんなさい。失礼なことも多々あったのではないでしょうか?そして、受け入れてくれてありがとうございます。



それでは、ビジネスのお話です。



かなり、ヨロンに傾いていますが、動くとなったら、8月中にはと思っています。一番の問題は住むところです。いざとなったら、徳州会病院に勤め、寮に入ることも考えていますが、老猫もいるので、出来れば動物可能なところに入りたいのですが、住居はありますか?お知らせくださると助かります。



徳州会はね、全国チェーンなので、ヨロンから埼玉に帰るときも希望を出せば転勤になるんですよ。考えました。調べました。逆のパターンも考えました。えへへ。



良いお返事が来ることを祈っています。そしたら8月にはもう与論かもね。 ヒロシさんも、ぼやぼやしてると乗り遅れるぞ~。



麻美




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うぐみの森~悲哀と怨念の一里塚 [ヨロン島]

「うぐみ」が泣いている・・・ 冬枯れの森の木立を縫って声なき声が「うわーうわー・・・・」 ほの白い灯油ランプの影で、皆が声を押し殺し慰霊の念を捧げる。

道無き道、そう、種々の亜熱帯樹や草木で覆われ、鬱蒼とした昼なお暗いウドノスの丘。 旧公会堂へ通ずる崖に這い蹲って伸びる細道は、うぐみの悲しみの血色に塗られた藪道・・・この世に生を受けてはならぬ子の、二度と帰ることを許されぬ死出への旅立ちの道が、細く暗くウドノスの森へと蛇行しながら伸びている。

 

顔面蒼白の、臨月間近の妊婦は白絹をまとい、朱模様の赤い帯を腰に無造作に巻き付け、古木の杖で重身を支え、息絶え絶えに終の床へ、運命の子らを腹に抱き辿り着く・・・中には、途中で息絶え、崖下の怒号の逆巻く渦波へと身を捧げていく隠女もいた・・・と聞く。 

「うわー、うわー、うわー・・・・・」決して弔われない霊たちの・・・悲しいサガの運命を背負い、この世と離別したおんな達の深淵からの、悲痛なもがきと叫び・・・ ウドノス一帯の岩窟、雑木は悲霊の終の棲家。 かすかな、うぐみの切実な悲哀に満ちた声の余韻が、いつまでも耳に付いて離れない。

・・・・ 幾星霜、ときは遷りユンヌのヒブラも祓われ恋のさかりばとなり・・・怨念の宿り木もいまや世の案山子となる。 ウドノスの丘は異国の情緒を映すギリシアの村へとすっかり変貌、かつての面影は表面的には、みじんも無い・・・ あはれ、鎮魂のこころと祈りを、報われずしてこの世から露と消え去った悲哀の女霊達に、少しでも手向けよう・・・ せめてもの弔いに

ユンヌの原像も変容し・・・また、心の闇が開け、かつてのウドノスの闇・・・魔界は夢幻の世界へ・・・ユンヌよ どこへ行く。 つらい過去の大地は動かずとも人の心は動き、ぶつじ(物事)はすさまじく変転し、まさに台風一過、古き時代は去りゆく・・・・永久に。

うぐみの森・・・・・いまなお、その名残を、その辛い過去史をとどめおく、心ある人の一里塚・・・ いつまでも 苦難の十字架を心に刻んで欲しい。 二度とうぐみの悲霊が再臨されませぬよう・・・ 

こころから、せめてもの 鎮魂の礼を尽くしたい・・・・ 合掌

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♪ 信じて~ルンルンルン∽! [随想]

僅かに赤や黄色の彩りを増したプラタナスの街路樹・・・木漏れ日が爽やかな初秋の東京。 静かに、緩やかな安らぎのときの流れが、道行く人をゆっくりと包み込んでゆく。

・・・傷心でヨロン島との別れを心に決めてから、ひと月余が、しなやかな水の流れのごとく過ぎ去ってゆく昼下がり・・・新たな再生の芽吹きを、秋色の装いに感じ始めている。 それは、図らずも、今は遠き心の人・・・限りない慈しみと奥深く豊かな知性、そして、温厚で柔和な人柄を心に染み入るまで感じさせてくれた・・・SA様との出会いの時期を同じくする頃の出来事・・・で有ったことを記憶している。

高校時代に密かに、心を寄せていたマドンナがいた。 違う地区の出身、ヨロン島東部とのみ書いておこう。 2つ年下で、本当に清潔感漂う、優等生で明るく闊達な後輩、Sさん。 んんん、残念ながら、同学年ではない上に、会うための口実が無い。 多分、多くの筆者の同級生の男子諸君がそのような感を抱いていたのでは無いかと推察する。 みんなSさんの事を噂する。 学校で評判のマドンナであった。

・・・・チャンス到来! 筆者が部長を務めていた放送部に、その方Sさんが入部して来たではないか! また、筆者が所属していた音楽部にも在籍。 と、そのような事で、幸運にもマドンナSさんとは比較的に、自然な出会いの機会を数多く持つことができた、と思う。 ・・・・生徒会活動を通じて、ふれあう機会も多かったように記憶している。 

しかし、高校3年生となると、それらの諸活動から早々と手を引いて行かなくてはならない運命・・・Sさんは入り立ての新人・・・・困った! そうこうするうちに、文通が始まった・・・・ とはいえ、大した交際には発展しなかった事実がある。 そして、筆者は東京へ・・・ それども、ときは瞬く間に過ぎ、2年後に東京で再会することが出来た・・・・ 真っ先に、Sさんの下宿先を訪問した記憶がある。

そして、数回の親密なときがあり、更にSさんとの付き合いが予想された。 しかし、運命は本当に皮肉なもの・・・ 筆者が、ずっとトライしていた英国のオ大学 http://www.ox.ac.uk/ への留学許可の連絡が、Bカウンスル(英国文化振興会) http://www.britishcouncil.org/jp/japan.htm から届いた。 その年の秋には出発を前提とした、諸準備が急加速していった。 すさまじいばかりの勉強と準備が要求された。 

おのずと、Sさんとの音信が疎遠になりがちとなり、渡英の直前には、筆者にはまったく精神的余裕が無くなり、また、関西への一時、移動を余儀なくされたりと、遂に、再会の機会を失してしまった。 ・・・・ソビエト経有で1週間の旅の果て、英国オックスフォード・ワドムカレッジ http://www.wadham.ox.ac.uk/public の学寮の門をたたくことになった。

・・・そして、数年が過ぎ、とぎれがちのSさんとの音信が、遂に不通となってしまった。 それから、30数年が経ち・・・・ふとした事で、なんと、一緒に食事をする機会が天から降って湧いた! 出会いとはまさに、そのこと・・・・ たまたま、Sさんと同級生の知人Oさんとの会食が予定され、その当日に、実は、筆者とも旧知のSさんもお呼びしたいのだが、良いかどうかとの確認電話であった。 

Sさん・・・? とっさには、思い浮かばない・・・が、よくよく聞いてみると、あのマドンナSさんではないか! それは、もう、喜んで・・・・あとは、言葉にならなかった。 なお、半信半疑であった。 反面、こみ上げてくる懐かしさと嬉しさが交錯し、平静を装うことできたかどうか・・・分からない。 

聞けば、Sさんは最近、元の姓に戻られ、娘さん2人と東京の北部地域に引っ越しされて来たばかりで、大手教育塾に支店長さんとして勤務しているらしい。 Oさんは最近Sさんと、一度、お会いしたとのことであった。 Oさん自身も少し、興奮気味であった。 休みが思うような曜日に取れないことが原因で、同級生同士でも、なかなか時間が繰り合わせることが難しく、今回は、ラッキーだったとのこと。 

Oさんとは、何度か、いろいろと会食やお話をしている間柄、何の、気後れも無い。Sさんは、彼女の同級生の間でも評判の美人で優等生・・・ そして、大の行動家。 なかんずく、沖縄舞踊と天性の音感の良さはには、定評があった。 その事は、Oさんも承知の事実。 

埼玉県のK駅で待ち合わせし、筆者の車で、予め、予約された行きつけのイタリアレストランへ直行する段取りになっている。 さて、いよいよ、Sさんが改札口より・・・ mmm、黒のスーツ姿にエレガントにスリムな容姿は、東京で最初に出会ったプロポーションそのもの、より、洗練された面立ちが一層、Sさんの魅力を倍加させていた。 

「お久しぶりです・・・」 満面の笑みに洗練されたご挨拶で、突然の再会がなされた。 お互い、たわいもない挨拶で臆面も無い。 あれほど緊張とある種の不安感に襲われていたことが嘘のよう。 ごく自然な流れで話が弾んでいった。 それからの3時間は、車中を含め、レストランのコースメニューに舌鼓を打ちながら、ワインで最高に盛り上がった。 四方山話にも大輪の花が咲き乱れた。 

離縁に関しては多くを語らないが、結局は、修復不可能に近いお互いの人生観の相違に因るものらしい。 とはいえ、Sさんの、かつての朗らかで闊達な話しぶりや、気遣い、聡明さは当時と変わることが無かった。 これまでの人生の波風を乗り越えた年月の分、幅の広さと深みを感じさせた。

この思いいもよらないSさんを交えて、こんなにも最高な気分で食事できること・・・があるものだ。 まだ、夢見心地の感で、楽しいひとときを過ごした事を、いまでも明瞭に覚えている。 

あっという間の歓談から明けて、もう、ほぼ1年余が経つ・・・ 今はお互いに、それぞれの家庭の立場がある。 しかし、くしくも、Sさんと会食を共にした頃には、筆者は既に後半生へ向けて、一人旅立ちの準備中であった・・・ これも何かの運命の計らい? 

Sさんとの定期的な交流も、自然な形でそれなりに順調に進んでいった。 とはいえ、まだ、それぞれの歩むべき路を二人の共通の道として語るステージでは無いことを、お互いが、暗黙に、認識している。 お互いに、整理すべきこと、準備すべきことを少なからず、抱えていることをSさんも理解しているから・・・ それぞれに、今を楽しみながら、共に歩める最良のときを待つことにしよう。 

そう遠くはない日に、共に歩める可能性の芽生えを実感。 さあ、これからは運命の神様が、途中で方向指示器を変えない事を祈るのみ。 切なる願いである。 Sさんにも、その想いを感じ取ることができる。

信じてまっすぐに、お互いが歩み寄ること。 その日々の積み重ねが、総てを変えて実現させてくれる。 そう、信じたい。 まっすぐに、お互いを見つめ、信じて突き進みたい。 たとえ、直前で反転しても、信じて進む事を後悔しない。 そんなSさんであると、確信する。

それが人としての誇りであり、また、お互いに相応しい人生の伴侶と信じ合えることのバロメーターでもある、と堅く信ずるから・・・

                   

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李政美(いぢょんみ)の世界♪ [評論]

・・・♭♪冬枯れの野に立つと  踏みしめた枯れ草の下の・・・♭♪ 

低く、しずかに詠唱のごとく澄みきった李政美(い ぢょんみ)の歌声が流れ始める・・・ そして、その詠唱は、それまで、騒ついていた場内の喧噪を全て包み込み、瞬く間に吸いあげていった。

李政美(い ぢょんみ)さんのライブ会場として久しく親しまれてきた、新宿の東京オペラシティにほど近い酒処「たまははき」・・・ 拠ん所ない事情により来年は閉鎖される東京のオアシス。 その最終章を飾る李政美さんのライブは、静かにしんみりと開けた・・・ そんな印象がある。オープニングは「遺言」で始まった。 

50数名の熱烈なファンで埋め尽くされた「たまははき」は、立錐の余地もない。 早々と満員御礼が報じられ、長年のファンも会場に入れず、泣く泣く夢でライブを楽しんだという話も聞いた。

・・・筆者が李政美(い ぢょんみ)さんの事を初めて知り得たのは、瀬戸内の李政美(い ぢょんみ)の熱烈なファン、bintenさんを介しての事であった。 そもそも、bintenさんが筆者の「十九の春」に関するブログ上での評論記事
http://uruzun-kukuru.at.webry.info/200605/article_23.htmlに目を留めなければ、李政美(い ぢょんみ)さんとの縁も生まれなかったろう事は確かである。

bintenさんより、有りがたく頂いた李政美(い ぢょんみ)さんのCD「オギャディヤ」・・・タイトルがオギャ・・・ 赤ちゃんの泣き声を連想させるアルバムタイトル・・・変な曲集だな? 率直に、そんな事を脳裏に浮かべながら頂いたCDを、愛用のヤマハのCDプレーヤーにセットする。 最初に耳にした歌は、まさに、「たまははき」のオープニングで詠唱(という印象が今でも強いのだが・・・)された曲・・・・ そして、李政美(い ぢょんみ)の唄心や音楽の世界が、この最初に聞いた曲で・・・全てを説き聞かせてくれたような、そんな強い思いがあった。

限りない慈しみと、清く澄み渡り、心と感情の襞の奥深くまでズンズンと染みいってくる歌詞とメロディーの数々。 ・・・この歌手は一体どんな方!? 最初に直感的にイメージしていたbintenさんのブログタイトルが「瀬戸内の李政美ファン」・・・・ また、そこらのドサ廻り歌手の偏屈で熱狂的なファンかな?・・・位のイメージ(bintenさん、ごめんなさい!)であった。 しかし、最初の曲を聴き終えて一瞬のうちに、その予感は微塵として吹き飛んでしまった。 

これは、いかん! あわててネット上を隈無く検索してみる。 李政美(い ぢょんみ)さんの公式サイトに辿り着いた。 関連するサイトも丹念に検索、さまざまなファンのサイトも、ざっと訪問させて頂いた。 李政美(い ぢょんみ)なる歌手・・・ここそこの流行の歌手では無い!その確信を得た。 ほどなく、プロフィールにざっと目を通し得心した。

東京・葛飾生まれの在日コリアン二世・・・残念ながら筆者には遠い縁のある出自の方。 大手英会話学校の教員時代に、数名の優秀な在日韓国の方との交流が短期・・・ また、ロス時代におつき合いの有った著名な建築設計士も韓国籍の方・・・それくらいのご縁しかなかった。 ぢょんみさんは東京・国立音大時代から、朝鮮民謡、フォークソング、フォルクローレを始め、さまざまな音楽家たちとの競演やソロライブ活動等の経歴を持つ。 現在はオリジナル曲を中心にライブやコンサート活動への意欲的な取り組みを展開中。 シングル、LPのCDも四枚を製作している。 

筆者が最初に出会った李政美(い ぢょんみ)さんの曲は、’03年春にリリースされたCDアルバム「オギャディヤ」。 アルバムのタイトルとなった曲は、作詞・作曲ともに、ぢょんみさん自身による曲・・・ このアルバムは、これまでの彼女の唄心の集大成的な曲集となっているのではないだろうか? そして、そのタイトルとなった曲「オギャディヤ」には、これまで彼女が唄い繋いできた重くて深い在日韓国民の伝統や誇り、洞察された民族の魂の声の凝縮・・・ そのような魂の波長が、彼女の心の中から、強く響き訴えて来るような感がある。

♪悲しみの海に  小さな舟浮かべて
 波にのまれて   沈まないように
 希望の歌  うたいながら
 さあ 舟を漕ぎ出そう

 オギャディア  オギヨチャー 
 オギャディア  オギヨチャー
 ・・・・・・♪
 と続く

(さあ、みんなここへ~オギャディア ライブビデオ)
http://homepage.mac.com/i_shoco/IjyonmiWorld/iMovieTheater41.html

「たまははき」ライブの場で、他のタイトルアルバム三枚も購入し、帰宅するやいなや、オーディオ編集室で、購入してきた全部のCDアルバムをじっくり聞き込んでみた。 ファーストアルバムを含め、’97年秋リリースのシングルCDに収録された「朝露」まで。 「朝露」はなかんずく、心に迫ってくる万感の思いを彷彿させる詩情の世界を映す。 そして、哀愁と悲願に満ちたぢょんみの調べが、幾つもの輪になり重なり合いながら、心の奥深くにこだましていく。

この強く深い郷愁に似た思いは、彼女の在日韓国人二世として心奥深く疼く、悲哀と苦難の民族の歴史の叫び・・・ 筆者には、残念ながら、その深い意味は測り知り得ない・・・いつの日にか、李政美さんに直接、お伺いしたいものである。 ・・・・・・・

♪長い夜をあかし 草葉に宿る
 真珠より美しい 朝露のように
 心に悲しみが 実るとき
 朝の丘に立ち ほほえみを学ぶ
 ・・・・・♪
作詞・作曲は金敏基で訳詞は李政美(い ぢょんみ)さんによるもの・・・その心を同郷二世の李政美(い ぢょんみ)さんは痛いほど、痛切に想いを滲ませた伝道の賛美歌にも聞こえる響きとして聞くものを慈しみの声で包んでくれる。そんな想いで、何度もこの曲に聴き入った。 (朝露: http://www.pweinc.jp/jeongmi/asatsuyu.htm

そして、「ありがとういのち」へと曲想が展開され、明るい明日へと生きる希望を繋いでいく・・・

♪ありがとう いのち 
 おまえがくれた 心はふるえ 
 押さえきれない ・・・・・・・・ 
 ありがとう 
 こんなに たくさんのものを♪


(ライブビデオ: http://homepage.mac.com/i_shoco/IjyonmiWorld/iMovieTheater30.html)

「たまははきライブ」の夕べは、私の脳裏を一生離れないと思われるような、魂を優しく、柔らかな慈しみの絹のオブラートで包み癒してくれるような、まさに、マイ・フェイヴァリットゥ・ナンバー(一番のお気に入りの曲) 「イマココニイルヨ」の大合唱で包み込まれ、熱狂と感涙で幕を閉じた。 李政美(い ぢょんみ)作詞、おーまきちまき作曲による、ベストヒット曲と言っても良いだろう。 

27日の夜の「たまははき」は、時ならぬ熱気と興奮の渦がいつまでも絶えない、晩秋の宴の館でもあった。 

時おりしも、その日の日中は、東京のお台場・潮風公園では「韓日友情のチャンチ(宴)が盛大に開催され、筆者も1日をその歓喜と韓日友好の様々なイベントや交わりに浸っていた。 チャンチの終わりには、手土産までいただき、李政美(い ぢょんみ)さんとの架け橋となったbintenさんへのお土産としてバトンされる筋書きまで用意されていた。 

不思議な韓日を取り持つ縁?・・・であると、つくづく感じる一日でもあった。 

李政美(い ぢょんみ)さんを含め、参会者の全ての人々にとって、いつまでも忘れ得ぬライブの宴となった。 岡山、広島、東京、千葉、埼玉、福島、秋田、そして、韓国からも馳せ参じてくれた方々・・・ いかに、李政美(い ぢょんみ)さんのファン層が厚く、広く愛されているか、そんな、強い実感を抱いた。 

そして、全ての李政美(い ぢょんみ)ファン、また、全ての音楽を愛する人々へ贈る共通の慈しみ深いキーワード曲「イマココニイルヨ」 ・・・ 
(ライブビデオ:作曲者のおおまきちまきさんとduet)
 http://homepage.mac.com/i_shoco/IjyonmiWorld/iMovieTheater9.html
http://www.pweinc.jp/jeongmi/fan/sakura.htm (「さくら」さんのHPGから)

♪生まれた場所も 
  息をしている場所も 
  遠く離れていても 
  アナタトワタシ イマココニイルヨ  
  アナタトワタシ イマココニイルヨ ・・・♪

心の奥深く、いつまでも消えない慈しみ、愛、励まし、想い、癒し・・・そんな全ての想いをあまねく伝え励まし人々を堅く結びつけてくれる命の歌・・・苦しいとき、悲しいとき、楽しいとき心から唇にのせて、心の底からこの歌を歌わずにはおれない・・・そんな想いを強く抱かせる曲である。 そのようなとき、いつも身近に李政美(い ぢょんみ)が共に居てくれている実感。

李政美さんの熱唱もさることながら、サポート女房役の矢野敏広さん(ギター、マンドリン)とセリさん(ベース)の息の合った伴奏も見事であった。 ときおり挿入される、ぢょんみさんのオカリナの音色も鮮烈・・・ いつか、トリオでまた、違った味のライブを聴かせて欲しいものである。 李政美ファンの皆様も、きっと、筆者同様な想いで、心からの暖かい声援と感謝の念を、サポート・ミュージシャンに手向けて居るものと推察する。 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

日本のどこかで、また、数多くの新たな「たまははき」が、きっと生まれ広がっていく。 きっと、そうなる・・・そんな予感を強く抱きながら、新宿までの道のりを「アナタトワタシイマココニイルヨ・・・・」大きな声で歌いながら帰途についた。 冷たい夜風が無性に「たまははき」での熱気と歓喜で春の心地よい風に感じたのは、筆者ばかりでも無かったのではないかと推察する。

有り難う、李政美(い ぢょんみ)&たまははき&bintenさん&他の全ての李政美(い ぢょんみ)ファンの皆様・・・ また、近い将来の熱気溢れるライブで、是非、再会致しましょう。 

bintenさん、ますます太くて強い、そして、う~んとシナヤカな李政美(い ぢょんみ)ネットワークの構築と展開を、宜しくお願いしますよ! 

2006年の李政美(い ぢょんみ)さんの更なる飛躍と活躍に、そして・・・
新たなる出会いと再会に・・・ 乾 杯 & チアーズ!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

★李政美(い ぢょんみ)さんの公式ホームページは以下です。 是非、ご訪問下さい。
  http://leejeongmi.com/index.htm   
  また、李政美(い ぢょんみ)さんとの出会いのきっかけを作ってくれたbintenさんの
ホームページは http://blog.so-net.ne.jp/jeongmi/ です。 
  是非、お立ち寄り、ご声援をお願い致します。

★ライブ&コンサートビデオはこちらからご覧になれます。
  http://www.youtube.com/my_videos

★木の葉みたいな東洋の真珠「ヨロン島」情報は
  http://www.minkantaishi.org/yoron.htm をクリック


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☆ミクロの舞踏会★♪★ [短編]

 チラチラと月の光に輝きながら、静かに脈打っている波の手が白い浜辺にせわしく伸びたり縮んだりしている。ときおり、夜鳴が岩間を抜けて水辺に歩むのも、闇の暗さに隠れた静けさを際だたせている。

 長い灯籠の火の手が、ゆらゆらと水平のかなたから足元まで伸びて、霜月の冷え冷えとした大気に一層の寒気を漂わせていた。

 ホンダワラの陰には、一匹のナウプリウスとプルテウスが何やら途方もない話に明け暮れているようであった。

 「つい最近にあった事だがね、プルテウス君。君の家には、もう、あのトロコフォア君が来なくなったそうだが、その後、どのようだね。」

 いつもの、あのかん高い神経質にピンピンはねる声でナウプリスががなりたてていた。

 「ああ、最近は、寒気も厳しくなったせいか、よう寄らんがな。それともわしの家がいささか、彼には近づきにくくなったのかも知れんのう。」

 「いや、それよりも、君が次第に鈍くなってきたので、足が何十何百もあるトロコフォア君には、退屈の代物なのだよ。 ほら、考えてもごらんよ。君が一つの事を言い出すまでに、もう、彼はあの何百もある足を交互に踏みならしながら、その矢の先みたいな口から途方もない数の言葉を吐いてしまっているじゃないか。」とナウプリスは、自慢の長いほっそりとした顎髭を撫でながらプルテウスのイガグリ頭を撫でて話をしていた。

 「頭の毛だか足だか分からないが、少なくとも、地についている部分の足でもって歩いたらかなり早いんではないかと思うが、どんなものかね、君、プルテウスよ。」

 「うん、それがな、この何十本かの手と足で頑張ってみても、大きなおれの図体はどうも早くは進まないんだよ。」大儀そうに大きな真っ黒な体を震わせてプルテウスは力んでみせるのであった。

 そんな会話が半月を浮かべた冷たい空気の空の下、テングサや海シダの生い茂るサンゴ村の小森に弾んでいた。凍えるように冷たく澄んだ海の中は月の光で明るく、あちこちの岩屋では夕べの諸々の生き物の戯れに、わめき声や笑い声、ひいては泣き声までもこだましていた。

 丸くて粒々の数珠みたいになったホンダワラや海葡萄に腰掛けたり、ぶら下がったりしながら道行く者どもをまじまじと視ているウミウシに、ヴェリジャーが、そっと背後から砂を吹きかけて彼を海面上にまで飛び上がらせてしまった。 赤と黄色のいきなシャツをまとったヒレユヴェラ嬢は、クスクスと声高に笑いながらスマートに通り過ぎていった。

 「ああ、疲れた疲れた!」と言いながら、せわしく息をはずませながらトロコフォアが勢いよくナウプリウスの家の戸口に駆け込んできた。あまりにも急だったので、ナウプリウスは驚いて飛び上がった。その瞬間に岩屋の固くて堅牢な天井に、思いっ切り頭をぶつけてしまい、もとより赤い頭をますます赤くしてしまったのであった。

 「やあ、ごめんごめん。こんなに足が多いと、ゆっくり歩けないんだよ。最初はゆっくり歩いても、目的地に着く頃には、かなり加速されてしまい、足がなかなか言うことを聞いてくれないんだよ。」と言うやいなや、家の奥まで走り込んで来て、奥の壁に思いっ切り額をぶつけて、ようやく止まったのであった。

 「やれやれ、やっと止まったわい。」と急いでハンカチで流れる玉の汗を拭くのであった。

 「ところで、あ~ん、なんだね君は来るたびにいつも僕の頭のてっぺんにタンコブを作らせるほどの急ぎようで。今日はまた、何か面白い話でもあったのかね。」とナウプリスは頭のタンコブを撫でながら、そして、片手では相変わらず自慢の白髭を優しく撫でながらトロコフォアを睨みつけて言ったのである。

 「そうまあ怒りなさんなよナウプリス君。せっかく、久しぶりに君を訪ねたんじゃないか。すこし落ち着かせてくれよ。」いかにも悪かった、というふうに体を3分の2ほどに折り曲げ、トロコフォアは謝ってみせるのであった。そして、その数多い足で近隣のサンゴ村や真珠色の砂丘とそのオアシス等を巡り耳にしてきた有ること無いことを愉快そうに話すのであった。

 あるときは演説調に、あるときはしんみりと、また、あるときは物語町に・・・アリマーがカイロードウケツの穴に嵌りこんでしまい一騒動が起こった事、そして、アリマーが嵌りこんだ穴が実はカイロードーケツの体の中であり、そうとは知らず、その壁からぶら下がっていた柔らかい肉質の饅頭らしきものをちぎろうとしたが為に、カイロードウケツの安眠を妨げたうえに大けがを負わせてしまって一大惨事となったこと。

 カメの手とカメの足とでは、どちらが早く泳げるかを一晩中徹夜で議論し続けていたアカガメの馬鹿息子達の話の終始やら・・・であった。

 岩屋の軒下からぶら下がっているネンジュモも面白げに細長い首を左右、前後に振り動かしながら聴き入っていた。

 一連の話すべき事を話し終えてからトロコフォアは何やら、岩屋の隅で(いや、実は、隅の方に居たのではなく部屋の中央の暖炉の方に居たのであったが)何やら動いているものに気づいて、「何だ!この真っ黒くてもぞもぞしているものは」と驚いて声を張り上げたのがいけなかった。

 さきほどから、じっと話の始終を聞いていたプルテウスは、トロコフォアが自分の存在を無視しているような態度に、心の内はいらだっていたし、また、大いに不愉快感を抱いていたのである。そして、「何だ、この真っ黒なもぞもぞしたものは!」と、あたかもススの固まりでも転がっているかのように言われてみると、もう、癇癪の置き所がなかった。 

 みるみるうちに、全身の剛毛を逆立て、眼をつり上げ「このやろう!」と雷鳴のごとく怒鳴ったからたまらない。

 この途方もない、身の毛もよだつような漆黒の梁怪獣、いや、実際、日陰でその輪郭も明瞭でないギラギラととぎすまされたような全身針だらけに見えたのであるから、ましてや、トロコフォアは慌てて喋りまくって気も静まってなかった時だけに、すっかり、気持ちは動転してしまった。

 そして、その得体の知れない黒ずくめの怪獣に仰天し、思わず入口と出口を間違えて、またもや岩屋の壁に全身をたたきつけ、その弾みに体中の間接の節々を外してしまった。悲劇、極まりない騒動となった。

 かわいそうに、トロコフォアはその夜は気絶のし通しで意識が戻ることはなかった。おかげで、ナウプリスとプルテウスは一晩中、彼の介護に身をやつさねばならなかった。 

 節々の関節をはめ込むために、プルテウスはパイプウニの鉄棒を何本も借りてきて、一節ずつたたき込んで行くのであった。これが、また、始めて経験する治療方法だけに、腰の骨が折れそうになるほど難儀極まりない経験をする羽目になった。

 ナウプリスは、ふと、いつか自分の関節もまた、こんな目に遭うことがあるのではないかと思うと、身の毛がよだち、あわてて妄想を打ち消すのであった。

 朝陽が岩屋の天井穴を通して射し込んで来る頃、ようやく、トロコフォアはその閉ざされた瞼を薄く開いたのであった。眼が開と同時に「あいたたたたた!と、いつものヒョロヒョロとした声とはけた違いのかん高い声で泣き声ともなんともつかない大声を張り上げてしまった。

 すっかりトロコフォアの介護や介抱に身も心もやつし疲れ果てていた二人を天井まで吹き上げてしまったのであった。そのはずみに、天井につるしてあったアンコウの火がこぼれ落ちてトロコフォアの背中に落ちてしまった。 

 そして、丁度、お灸を据えた形になり、またしても大声で絶叫してしまったからたまらない。岩屋の空気はぶるぶる震え、岩戸はがたがたきしみ音を立て、炉端の夜間はひっくり返ってしまい熱湯が飛び散ってしまった。

 時ならぬ岩屋の騒々しさに、通りがかりのカワハギと夜勤帰りの真っ赤な目をした金目鯛が、岩戸の穴をのぞき込んでいるのであった。

     


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★ヨロン駅&ミルキーウエイ★☆★ [ヨロン島]

見上げてごらん 夜の星を
小さな星の 小さな光が
ささやかな しあわせを
うたってる

              

見上げてごらん 夜の星を
僕らのように 
名もない 星★が
ささやかな しあわせを
祈ってる
・・・・・・・・・・・

手をつなごう 僕と
おいかけよう 夢を
二人なら 苦しくなんか
ないさ


・・・・・・・・・・・

見上げてごらん 夜の星を
小さな星の 小さな光が
ささやかな しあわせを
うたってる
・・・・・・・・・・・

見上げてごらん 夜の星を
僕らのように 
名もない 星が 
ささやかな しあわせを
祈ってる

          
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ヨロンの夜空を 埋め尽くす星
限りない広がりと 慈しみの微笑みを
ちりばめた 星空の天幕
                                   

きらめき走る 流れ星は
願い星☆ 
想い願う人に届く 
叶い星★
                                   

澄み渡り流れる 天の川は
ヴァージンロード・・・
                                   

そして 二人の路
ヨロンの道の駅へと通ずる 
希望と夢を乗せて 
開かれる道
                                     

そんなヨロンの星空に
限りない想いをこめて 
会いに行こう
                                     

永久に美しく煌めき澄み渡る
ヨロンの夜空は 希望と夢とを
繋ぐ世界
                                     

いつまでも いつまでも・・・
そう願いたい

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                       

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☆イチョーキ長浜★夢枕☆ [随想]

少し先の折れ曲がった、細長い竹の棒がアイボリーカラーの砂のキャンバスを軽やかに滑って行く。 連日のように照りつける初夏の海辺は、島慣れした子供達にとっても暑く痛い。

ここはイチョーキ長浜。 そう、ヨロンを代表するパールホワイトの数キロにも及ぶ砂丘海岸である。 この一帯の、多くの子供達のお気に入りの通学路でもある。 また、潮の干満に関わらず、一般にも、親しまれ利用されていた。 この一帯の住民達の居住区と茶花の中心部(ヨロン島の中心部と言っても良いのだが)を最短距離で結ぶ生活幹線道路としての重要な役割を担っているのである。

しかし、風雨の強い日や台風のときには、そうもいかない。 そのようなときには、少し内陸の藪や雑木林を縫って走る一本の小径が唯一の幹線路として使われていた。 利用度の低い内陸路は、場所によっては藪や雑木の勢いに押され、亜熱帯ジャングルさながらの様相を呈していることもあった。 しかし、それは慣れた場所でハイキングコース宜しく、鼻歌交じりに小森の散策気分で楽しみ利用したものである。

この一帯の砂浜では恒例の浜競馬が初夏に行われていた。 ウジュン(ウプンジュ)川の西岸当たりをスタート地点として約1キロのコースを疾駆し優駿を競う、ヨロン島の一大イベントでもあった。 島のあまねく駿馬や駄馬が集められ、それぞれの部落の名誉をかけて競った。 

この普段は静寂な浜辺一帯が、時ならぬ競走馬の嘶き、鞭打ちの騎手の叫び、熱狂する観衆の怒号や歓喜の声・・・ モクマオ、タコの木やアダン等、よじ登れる限りの木々のてっぺんや沖合の小舟まで繰り出し、また、コース外の場所という場所は立錐の余地も無いほどの混雑で覆い尽くされた。 

ときには、予想外の場所にコースアウトし暴れ駆け回る駿馬にあわてふためき転げ回る観客も続出した。 そして、思わぬ大けがで搬送されて行く輩、泣き叫びながら逃げまどう女・子供達・・・ 悲喜こもごもとした、にわかに仕立てられた砂丘の壮大なドラマが繰り広げられ、喧噪の1日に総ての島民が酔いしれた。 この美麗で優雅に横たわる砂丘にも、そのような華やかで壮大な歴史の一頁が有った。

今となっては、夢のまた夢の世界に等しいイチョーキ長浜の宴。 ・・・おそらく、この光景が再現されることは、もう、永遠に無いであろう。

それから幾星霜、いまでは、競走馬はもとより、農耕馬を見ることも皆無に等しい。 ヨロン島からは、もはや、人と生計を共にする「馬」は消え去ってしまったのである。 いまでは、某ホテルが観光用に飼育している数頭がいるのみと伝え聞く。 かつては、ゆうに100頭を越えて飼育されていたものと思われる。 

人馬一体となり農耕や荷役作業に勤しんでいる、のどかな光景を、ごく当たり前の光景として見ることができた。 ・・・・これもまた、与論島における大いなる古き良き自然や種、そして、長閑な景観の消失の一つとなったと言えよう。

自動車や自転車が走行可能となるのは、まだ少し先の話である。 今では、想像もつかない長閑した時代でもある。 今や、コースタルハイウエイなるもの、そして、コンクリートの護岸やプロムナードが造られ、まさに当時を知る人にとっては、浦島太郎の世界・・・

大雨の後には、子供達にとっては一大事なでき事があった。 この地域一帯・・・ というよりはヨロン島では唯一といってもよい大川「ウジュン(ウプンジュ)川」がイチョーキ長浜を東西に分断していた。 その幅、普段は約10メートルくらいであったが、長引く雨や豪雨の後は最長50メートル近くに急拡大するのであった。 子供達が、いかに、この事態を恐れていたかは、容易に察しがつく。 

平時は靴を脱いで(もっとも裸足の子供が殆どで、その必要性は無かったように記憶しているが・・・)問題無く、その川を渡ることができる水量である。 しかし、台風や大雨の後は、その水量や水かさが数倍にも急増してくる。 当然、川の流れの勢いも数倍に激しくなる。 黄土色に変色した濁流はいきり立ち、白波をたてながら、一気に、海へ向かって突進する。 勢いを増した流れは更に河床をえぐり、子供達にとって、ますます渡河の条件を悪くしていた。 

必至の覚悟で子供達は2~3人が手を取り合い、浅めの渡河ポイントを足先で探りながら渡り始める。 リーダー格の先頭の子供が無事、渡りきったところで、大きな子供が小さな子供を背中や肩に乗せ、胸元まで衣類をあげ、当然、ズボンや下着は脱いで頭にくくりつけて、順次、渡りきる。 この渡河は、ある種、子供達にとっては、わくわくする冒険でも有った。 また、この事は彼らだけが経験的に習得した技術として、ひそかな誇りをもっていた。 

とはいえ、子供達にとって、この大河の反乱はじつに、憂鬱な出来事であったことも間違いない。 とりわけ小さな子供達にとっては、恐怖以外のなにものでもなかった。 幸いにも、大事に至った事故は無かったものと記憶している。

そんな光景は、江戸時代あたりの大井川を庶民が必死の思いで、川越をしている光景を描いた安藤広重の版画の構図を想起させる。 ・・・まさに、タイムスリップした感である。 当然、迂回路があった。 しかし、それは、川沿いに辿る細い道で、川渡りに較べて4~5倍くらいの時間を要した記憶がある。 よほどの事が無いかぎり、その迂回路を使用する子供達はいなかった。 

大干ばつの年を境に、乾燥し疲弊しきった田畑には、いっせいに砂糖キビが植農され、数年を経ずして全島に広まっていった。 収穫された砂糖キビを集荷し、新設の製糖工場へ搬送するためには、新たな道路整備は必須事業の一つとなった。 いわゆる、ロッキーロードの登場である。 そして、その道路網は、この頃から盛んに建設されるようになった。 全島に、見たことのない白亜の産業、生活道路網が、またたく間に拡がっていったことを記憶している。

川の水かさが増え、付近の水質汚染が始まったのは、与論島で初めての本格的製糖工場ができて間もなくの事であった。 これは、茶花地区とヨロン島の西端に近い兼母地区沖合の小島、「江が島」を取り込んで建設された、大規模商業港が開港した時期に付合する。 茶花中心街とこの新港を結ぶ産業道路が開通し、ますます、物流が激増していった。 そして、新たな南栄製糖工場の本格的な稼働は、冷却用工業用水の大量排出をも産み出すことになった。

ヨロン島に於ける環境・水質汚染の歴史は、製糖工場の稼働開始の頃に始まったと言えるかも知れない。 ウジュン(ウプンジュ)川やその水辺付近で、常に群れていた、数多くの汽水性の大小の魚たちも、この頃から次第に影を潜め、ついには、そのようなのどかな光景を見ることは殆どなくなっていった。

この時期を境に、イチョーキ長浜の通学路、交通の主要路としての役割は急速に減衰していったように記憶している。 新しく開通した幹線道路の稼働が本格化したからだ。 これはまた、従来の稲作農業から砂糖キビ生産への一大農業変革をも意味する。

官民をあげての農作物の転換が、一時期はこの島に富と繁栄をもたらした事実があることは、否めない。 そして、様々な公共事業がヨロン島の形骸を大きく整形し表面的な変化をもたらした。 ヨロン観光ホテルができ、湾岸道路が開通し、そして、護岸やテトラポットで埋め尽くされ、化石燃料の排気ガスを放散する元凶となるコースタルハイウエイが開通し、不要と思われるような人口レクレーションゾーン建設が行われてきた。

しかし、いま、その栄華の歴社は終焉を迎えようとしている。 そろそろ、セメントありきの無軌道で盲目的な外科治療は、施術前に熟慮し逡巡すべきときに来ているのではないだろうか? ・・・いま、新たな、真の島再生への変転を迫られている事実があるように思える。 

思えば農業変革の時期を境にヨロンを代表する美しい白砂浜海岸「イチョーキ長浜」の景観は、著しく変貌し翻弄されていく運命にあったのかもしれない。 

様々な楽しみを教え想いでを与え、子供心を豊かに慈しみ育ててくれたイチョーキ長浜から子供達や地域住民の足音が次第に遠のいていくのに、それほどの年月を要することはなかった。 そして、遂には、その長く美しい姿はまた、太古からの悠久な静寂のたたずまいに戻っていった。 

ギリシア・ミコノスの夢など、果たしてこの地の在りし日の無垢の自然に、どれほど匹敵するものがあると言えるのだろうか・・・・?

ヨロンよ何処へ行く・・・・・
 
茶花中央通りの西の終点はイチョーキ長浜との接点でもある。 中央道路とイチョーキ長浜東端のクロスポイントが旧茶花港。 この港は、与論島で唯一の商業港として、また、島外との往来のゲートウエイとして栄華を極めていた時代が有った。 

別離や再会を待ちわびて立ちつくす人々、荷さばきで込み合う広場、所狭しと行き交う人々の喧噪に満ちていた。 まさに、ヨロン銀座、いや、ヨロン島全域へ通じる物流網の起点として重要な役割を果たしていた要衝の地として記憶すべきである。

図らずも、筆者も、この港から複雑な思いで何度か旅立ちをすることになる。 いまなお、その記憶が鮮明に渦巻いている。 いまは、大幅に増築や改築が施され装いもミコノス風・・・ ときの流れを映して佇んでいる。 

現在のミコノス広場付近が茶花中央通り西端との接点・・・ そのランドマーク地点になるだろうか? 灰色に塗られ高くそびえ立つ繭精製処理工場の煙突が、かつてのランドマークであった。  ・・・ともかく、その辺りである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

イチョーキ長浜の東端に立つ一人の男の子がいた。 早々に学校を終えた3~4年生くらいの男の子が、思案顔で、鞄を両手にぶら下げて立っていた。 港には数隻のボートが、大きな干潮で砂地に乗り上げていた。 普段は視ることの出来ない、沖合まで珊瑚礁が顔を覗かせていたのである。 太陽は、まだ3時の方向。 

よし、今日はピシグンだ! ピシグン・・・子供達の磯探訪のキーワード。 思いっきり磯を駆け回り、様々な獲物をハンティングする。 大潮のときには子供から大人までのこのゲーム(生業とする人もいると聞く)に群れ興じる。

点在する程良い珊瑚や石を手当たり次第ひっくり返していく。 両手で岩穴、珊瑚や海藻を探りながら獲物を捜し追い求める。 大抵は、巻き貝、平貝や小魚が多いが、ときにはアワビやタコ、エビのような大きな獲物にありつくこともある。 まさに、自然の中でのゲームである。 ときを忘れて、男の子は帽子を片手に(網の代わりとなる)、磯辺ハンティングに興じる。 

・・・気が付くと全身が濡れねずみ・・・ でも、そんなことを気にする子は誰もいない。 それだけ子供達にとっては、かけがえのない、大切な楽しみのひとときであり、イチョーキ長浜と縁を持つ子供達だけに与えられた特権といっても良かった。 楽しみのときは瞬く間に過ぎてゆく。

さて、そろそろ帰ろう。 ・・・砂浜の中程にうち寄せられていた、古い竹棒の先を少し曲げて砂スキーを作る。 おもむろに、砂浜の中程に放り投げられていたランドセルを片手で担ぎあげる。 ヨイッショ・・・ さすがに動き回ったあとの鞄は重く小さな体にのしかかる。 それでも、磯ハンティングの興奮の余韻で、あまり苦になるほどの重さを感じることはなかった。 

自家用車よろしく竹棒を運転しながら、しばしの砂浜ドライブは、おきまりの、そして、お気に入りの日々の光景であった。 右に左にカーブ曲線の軌跡を残しながらショーファーよろしく、長浜を二分するウジュン(ウプンジュ)川の淵に辿り着く。 この川を渡りきると家まで、約半分の距離を来たことになる。 川向こうの波打ち際にはランドマーク的な岩が、どっしりと存在感を誇示している。

ジャブジャブジャブ・・・肌を刺すくらいの冷たい川の清水が心地よい。 しかし、さすがに飲めない。 川の上流で汚物や用を足す人を何度も目撃した事があるからだ・・・・いやだな! ここに辿るまで、幾重ものフィルターで浄化されているはずなのだが、はやり、飲む気にはなれなかった。 我慢・・・がまん。 のどの渇きを必至にこらえながら先を急ぐ。

よし、渡った。 あと残り半分の道のりと安堵した。 改めて、竹棒の先を砂上にセットし、いざ、出発進行・・・・・ サクサクッと、硬めの砂地にめり込む足音の心地よい響きが、浜辺の静寂の中にこだまする。 しばし歩を進めて行く・・・

おや? 人がいる。 ランドマークの岩の根っこの影で涼んでいる人がいる。 見慣れない若い女の人だ。 岩まで数メートルのところで、男の子はとまどい立ち止まった。 誰もいないはずの・・・ こんな所に人が涼んでいる。 一瞬、竹棒の運転の手をとめ、その女の人に目をやった。

            

    (現在のランドマーク岩はかつての白砂の衣を脱ぎ捨て
    緑の青海苔の衣装をまとい立つ)

と、その女の人も男の子に気づいたらしく、少し長めの髪を振りながら男の子の方に顔を向けた。 「こんにちは!」 男の子は狼狽した。 お姉さん・・・・ しかも、この土地の人では無いことが、すぐに、男の子の直感で分かった。 綺麗なお姉さん! それしか最初は頭に浮かばなかった。 タビンチュのお姉さんだ・・・・ しばしの無言の沈黙。 なぜか、男の子の顔がむしょうに火照ってきた。 表現し難い恐怖感も同時に襲ってきた。

そんな様子に気づいたのか、その綺麗なお姉さんは、ふたたび、「こんにちは、ぼくちゃん」と声を掛けながら立ち上がり小脇に茶色の小さなバッグを抱えながら近寄ってきた。 そして、次の瞬間、お姉さんの発したその一言で全身が凍り付いてしまったのだ。 ・・・男の子は、やっとの想いで「こんに・・・・わ」と言ったような気がする。 「ぼくちゃん・・・って、僕のこと?」  頭の中で、その言葉がグルグルと回転し始めた。 そんな事はお構いなしに綺麗なお姉さんは、優しく声を掛けてきた。

「ぼくちゃんは何処に行くの?」・・・ 少し間をおいて男の子は、 「う・ち・・・・」と応える。 と、男の子の倍くらいの背丈のあるお姉さんが急に白い腕を差し伸ばして、男の子の頭を優しく2~3回ほど撫でてくれた。 男の子は、少し、気持ちが落ち着いてきた。 そして、お姉さんは少し腰を落とし、男の子の顔の前まで自分の顔を近づけ、香りの良い吐息で、「あら、ずぶぬれじゃない。 大丈夫?」と、男の子の顔をそっと優しく両手で撫でてくれた。 

それまで嗅いだ事もない、なんとも心地よい香りが顔を包み込んだ。 男の子は、まさに、夢見心地そのもの。 あたかも、一瞬、魔術師に弄ばれている錯覚を覚えた。 そして、お姉さんは、やおら、バッグから小紋のハンカチを取り出し、耳元から首に掛けて吹き出ている汗と衣類の水を拭き取って、「これでいいかしら、どう?ぼくちゃん」 ・・・・ 「あ・り・が・と・・・」 精一杯の返答であった。

「ふーん、その竹の棒のお車の運転って、なかなか楽しそうね。」 ・・・一緒に歩きながら、男の子の竹棒車の運転ぶりを見ていたお姉さんが急に声を掛けてきた。 「私も、少し運転しながら、この浜の終点付近までご一緒して良いかしら?」 「・・・いいよ」 いかにも、ぶっきらぼうな返答であったが男の子にとっては頭が錯乱気味のなか、しどろもどろながらも探しうる最良で丁寧な表現。

学校の先生以外には、ましてや、見ず知らずの綺麗なナイチンチュのお姉さんなどと標準語で話したことも無かった。 また、夢にもそんなことがあろう等とは考えた事も無かったから、無理もない話ではある。

「こんなふうにすれば良いかしら? うん、なかなか面白いわねこれ・・・どう、上手?」などなど、いろいろと質問攻め。 男の子も次第に緊張がほぐれ話が少しスムーズになり、お姉さんもこの竹棒車の操縦と乗り心地に魅了されたようであった。 

真珠色の砂浜と重なり、竹車を運転する腕に夏日が射し、その白さが、ますます際だってより白く輝いて見えた。・・・まだ、見たことの無いゆ・き・もこのように白いのかな・・・ 男の子は頭の中で呟きながら、お姉さんの白く輝く腕を見つめながらお姉さんの脇を先に後にと歩いていた。 男の子は、なぜか、急に胸の鼓動が早くなり一瞬苦しさを覚えた。 目を波打ち際にで静かに泡立つ波に向けると、少し、気分が楽になってきた。 

もう既に潮が満ち、先ほどまで見えていた磯の海原は、血の気の引いたような淡く青い水面で覆われていた。 そろそろ、長浜も終点を示す沖合まで突き出た岩と磯のランドマーク地点に到達する。 この辺りは今では、コースタルリゾートのプレジャーボートやヨットのベースとなり、当時の面影は皆無に近く変貌してしまっている。

「あ、もう、そろそろ長浜が終わるわね。 あそこの岩場で少しお休みしましょう。 いい?」 誘われるまま、磯の原を見下ろす少し高めの岩場で、程良く平らな岩場に並んで腰を下ろした。 「ねえ、ぼくちゃん歌は好き?」 ・・・・て、言われても、と思いつつ・・・「うん、好きです」って応えてしまった。 「そう・・・ では、どんな歌が好き?学校の歌?それとも・・・・」 すかさず、「うん、学校で習っている・・・我は、海の子」

とっさに、浮かんだこの歌は、つい、先日、紙芝居を見せながら先生が歌ってくれた歌で、授業でも練習した曲。 紙芝居は、江ノ島で多数の生徒がおぼれるのを救出する最中に波に飲まれて命を落とし、帰らぬ人となった先生のお話(実話)であった。 男の子にとっては、とても感銘する曲でもあった。

「あ、それ、いいわね。 ぼくちゃんにぴったりの歌よね。 一緒に歌いましょう?」 「・・・・う・・・ん。」 恥ずかしい限りである。 良くは覚えていないし、歌が得意な訳でもない。 ましては、美人のお姉さんと一緒に歌うなんて・・・・ 周りで、誰かに見られているとよけいいやだな・・・・・なんて、雑感多々をよそに、お姉さんが歌い出した 「・・・わーれーは、うーみのこ・・・しーらなーみーの・・・・」

玉のようなソプラノ・・・ 聴き入っていると、 「ほら、ぼくちゃんも歌ってね」 という合図に誘われて小声でボソボソとついて歌い出す。 お姉さんはスキャットやハミングで伴奏し男の子の歌を促し始めた。  そして二部合唱へと・・・ いつの間にかお互いの歌声が楽しく高く弾んでいた。 朱からオレンジに装いを新たにした夕陽が岩場の二人に柔らかなスポットライトを当て、長いシルエットを映し出していた。

どれくらい時間が経っただろうか・・・・ 初夏の暑かった陽が柔らかい西陽に変わり、長い茜の手が岩場の二人を掴んでいた。 まもなく、いつもの夕暮れの重く暗い緞帳が降りようとしている。

「・・・あら、もう、こんな時間ね。 また、もと来た路を戻らなくっちゃ。茶花の町中の旅館に泊まっているのよ。 ぼくちゃん・・・きょうは、とっても楽しかったわ。 いい、思い出になったわ。 有り難うね。勉強も歌も楽しんでね・・・ぼくちゃん」 「あ、そうそう、これあげるわ。 使ってちょうだいね。」 と言って、さきほど汗を拭ってくれた淡いピンクの小桜紋のハンカチを、両手の中に押し込んで渡してくれた。

そして、ナイチンチュの美しいお姉さんは別れ際に、男の子の坊主頭を撫でながら、「また会える日があるといいわ。 でも、今度、会うことがあっても、きっとお姉さんは、あなたが分からないかも知れないわね。 きっと、大きく立派なお兄さんになっているわね。・・・そう信じているわ。」 しばし、声がつまり、男の子の頭からゆっくりと手が離れた。 その暖かい手のぬくもりの余韻が・・・今でも伝わってくる。 

そして、お姉さんは「さようなら」を残し、二人で刻んだ砂浜に残る蛇行する軌跡を、また、ゆっくりと辿りながら帰って行った。 途中、2、3度ほど両手を大きく左右に振り、ついには、イチョーキ長浜の夕闇の中に吸い込まれ消えていった。 

・・・男の子は、その場に佇み、いつまでも美しいお姉さんの後姿を見つめ続けていた。

遂に二人は、お互いの名前も知らず、詳しい素性も聞かず・・・・ 二人の偶然の出会いを、自然な成り行きで楽しみ、そして、別れた・・・・ それが、人と人との出会い・・・ そして、別れ・・・ 運命

イチョーキ長浜がとりもってくれた出会いと別れ・・・・

会うは別離の始まり・・・ 遠い日の胸に迫る想い出は、ときを越え、いつまでも
つい昨日の出来事のよう。

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★ヨロン島再生交信録 (2) [ヨロン島]

(6) Dear Chii-san,

今日も、こんばんは! ももちゃんは元気ですくすくですか? 初めての夏で何かと、ママとしては心配?かな。。。

つい先ほど、Chiiさんかあのヨロン通信14を読ませていただきました。その前に昨日、メール送信をしてありますが、good-timingでしたね!ヨロン通信14を読んだ後に送信していたら、言い訳がましい感じもしますので・・・・ それにしても、当方の「ダイヌパナヴィラヨロン」構想が、全く予想だにしていないような状況で地元では話題に引き回されていた!?・・・なんて、本当に驚き桃の木何とやらです。怖いですね・・・

でも、Chiiさんとの偶然の出会いは、女神の引き合わせとしか云いようがないですね。本当に、誤解されていることが分からないままあの、構想を推進させていたら・・・・ぞっとします。 本当に、有り難うございました。

そもそもは、喜山康三議員 http://yoron.netbank.co.jp/okabe/index.shtml が議会に対して、ヨロンの若者達のアパート不足の窮状を訴え、町営のアパートやマンション(とまでいかなくても)等の、早急な建設の必要性を訴えていた議事録を、小生がたまたま読んだこと。 そして、お話しましたように、いろいろな分野の方々が共生しながら、より良い地域社会への貢献活動のできる気楽に滞在、居住できる場を提供したいこと。そして、バリ島との文化や人的交流のベースとして、ヨロンの人々にも異文化交流の大切さを啓蒙、啓発していけるような場にしたいこと、いま、ヨロンには殆ど完備されていないギャラリーをもうけ、地域の芸術活動の発表と推進の場となれるような場を提供することetc。

それには、Chiiさんのような創造、啓蒙、情熱とキャリアをかねた方の関与が必須条件・・・特定の分野で関心をもっている方には何人かお会いする機会があり、その方向から始めながら最終的に目的とする方向へ様々な方々の関与と支援を頂きながら展開するのもいいかな、って思っていた次第。そこにChiiさんが現れたとのいきさつ。

ご理解を頂き、そのような同様なベクトル上で協議、推進を頂ければ本当に嬉しい限りです。そして、その場所が島内外の方々のよりよい共生のスペースとして発展しくには、どの方向性が良いのか・・・これから、じっくり考えたいと思っています。

順序が逆になりましたが、Chiiさんの「ヨロン通信」を当方のヨロン関連サイトのHPGのリンク先に加えさせて頂きました。 もし、削除をご希望であれば、その旨ご指摘下さいね。http://www.minkantaishi.org/yoron.htm

是非、Chiiさんの積極的な、将来の悠遊クラブプロジェクトへの関与、ご理解とご支援を頂けますよう祈念致します。

思案の事が、うまく正確に伝わったか、若干、懸念しております。

お気軽にメルヘン、コメントetc下さいね。

ではまた。

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(7) Chiiさん

今晩は。暑い日が続きますね。
昨日は、知人と江戸川の花火で納涼してきました。

花火の賑わい&ファンタジーナイトも良いですが、ヨロンのミルキーウエイの夏空も恋しいこの頃です。

2日(火)11:30、恵比寿2F東口改札口待ち合わせ~ランチョン確認、有り難うございました。 気楽に、いろいろとお話しましょう。

Looking forward to seeing you soon......

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(8) Chiiさん

昨日、書き忘れましたが、今度、実家帰り、もしくは、上京の折に、お会いする機会を作っていただけますか?

DPV(ダイヌパナヴィラ)の開発について、早い時期から貴女とお話をし、いろいろな構想を発展させたいと考えております。できれば、貴女の案も早い時期に勘案したいこともあります。

よろしくご留意願います。 暑いおりご自愛下さい。

ではまた・・・ 

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(9) Dear Chii-san,

おはようございます。

Meは25年近く、海外投資開発(最近は国内、とりわけ東京が多いですが)関連コンサルタントですので、マイペースでの時間設定が比較的自由で、朝はこの時間帯は、ゆっくりコーヒー&情報の収集(新聞、雑誌、インターネットetc)タイムです。 Chiiさんは、今が、一番に多忙な時期ではないかと推察します。

レス有り難うございました。またひとつ、Chiiさんのヨロンにおけるビジネスや活動の指向性が明確になってきた感が致します。・・・・あまり、Meの周りでMBA資格を保持しながら活動している女性の方がおいでにならないこともありますが、これまでChiiさんのヨロン通信で分析、提示されているレポートやプレゼン等の内容や調査手法等の原資から推察し、納得した次第。

Meのビジネスキャリアに相通ずる共通部分がChiiさんの業務経験の中にも多分にあるような気が致します。 ・・・Meはバブル期を挟んで3年ほど、山一証券経済研究所(海外投資情報部)に在籍していたことがあり、経営分析や様々な企業調査活動を通じ、ビジネスとは何か?を模索し情報発信をしていた事もあります。 

その前後には、JICAの海外調査スタッフとして(東南アジア、中近東、東アフリカ諸国担当)さまざまな国で、やはり日本とのビジネスを通じてその国の経済、産業、文化インフラをいかに高めて共栄しあえるか・・・をテーマにしておりました。

ちなみに、以下にMeの必要と思われる主要な業務経験等を書いておきます。その方が、今後いろいろとお話をする上で、Chiiさんにとって、これからのプロジェクト等に関するご理解やスタンスが決め安いのではないかと考えますので。

・・・・・・ 教育関連業務 ・・・・・・・・
・ECC外国語学院 
http://www.ecc.co.jp/ を最初に東京に設立しその後、関東以北の
 当学院のビジネスモデルの基礎作りの中心スタッフ
・東京外語学院、東京スクールオブビジネス(千駄ヶ谷、代々木)の教務部長
・東進スクール 
http://www.et-toshin.co.jp/ (大手予備校)の教務指導担当役員
・ケント国際学院(K・デリカット)共同事業 ・・・ ケント氏の体調不良による
 帰国と中止(4年間ほど開校・・・東京、大阪、宮崎、沖縄校)
・埼玉県教育委員会(文部省委嘱事業)委嘱で県内30校のIT及び国際化授業の
 モデルプログラム策定業務に参加(2年間)

・・・・・・・一般ビジネス関連・・・・・・・
・ジャイカ 
http://www.jica.go.jp/ 海外フィールドエキスパートとして、東南アジア諸国
 (インドネシア、モルジブ、タイ、フィリッピン)、中近東(イエメン、オマーン)、東アフリカ
 (エチオピア 及びソマリア)での諸情勢の調査及びODA関連コンサルタント業務
・ユネスコ基金によるインドネシア(ボロブドール~バリ島・ロンボク島)観光開発関 連プロジェクトへ参加
・ヨロン島(プリシアリゾート開発推進)観光開発プロジェクトへの参加
・関西の大手不動産開発会社の米国西海岸でのリゾート及び不動産開発
プロジェクトに参加(ハワイ・ワイキキに本拠を置き投資顧問を受託)
・山一証券経済研究所の海外投資情報部に所属(企業調査、経済分析等)
・PWEパンワールド・エンタープライズを創設
・民間大使交流会を創設(海外の学校やリゾートホテルへの民間大使・
 ビジネス研修生の派遣プログラム:現在も実施中)
・海外留学エージェントとの共同・提携業務
 ネオ・スクールオブビジネス(池袋)、アイゼス(池袋)、IEC国際センター
・遊遊クラブの創設推進 (海外移住及びロングステイプログラム)
 ※現在、所定の基金の調達活動中(ほぼ50%の予定の用地等の収容が完了です。)
・東京都都市再開発プロジェクトへの参加
・無公害建設内装材の上場へ向けてのプロジェクト参加(内外に於けるPR
 業務他)※これから、本格的に取り組む主要ビジネスです。
 (シックハウス症の根本的な除去・解決を実現できるハイテク素材)
 是非、Chiiさんにも、将来の有望なエコ商品として参画し、ヨロン他の活動や収益の 源泉としても魅力的な新規商品推進プロジェクトです。既に、ミサワホームがすべて の新規住宅に標準仕様として採用内定で、今後、様々な 住宅、オフィス、病院、介 護関連施設他の多くの分野で当該製品「ハイパーセラン」が採用されることが推察さ れます。 現在、2~3年後の上場に向けての様々な準備を開始したばかりです。

・・・・以上かな? 必要と思われる部分だけ脳裏にとどめておいて下さい。

ちなみにイギリスの専門学校、大学 http://www.wadham.ox.ac.uk/public を終えて、そのまま、ロンドンで2年ほど、日本語教師や学生向けカウンセラーをしながら、貿易関連のアルバイトをした事もあります。その関係で、ほとんどヨーロッパや東欧の国々は経験があります。特に、ソビエト時代には、親しいタス通信の方がいたこともあり、10数回も訪問致しました。

・・・・・ 閑話休題 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ヨロンの場合、場所や環境はいろいろな相違点もありますが、それらの経験や昨今の日本のリゾートライフやリタイヤメントライフスタイル等の多様化、グローバル化に対応できるような、新しいコミュニティ・リゾートの創生ができるものと推察しております。 ボーダーレスな意識改革は、若い世代を中心に、かつ、高齢化社会に突入する世代にとってはより大きく、強いものがあるのではないかと思っています。

メールではどうしても堅い話になりがち・・・アイスクリームのオブラートで包んだ構想なのですが、お会いしたときにまた、お話しましょう。あなたの意見や提言も、じっくりとお伺いしたいし・・・きっと、いろいろな創生のきっかけが産まれて来るものと確信しております。

8日の午後3時の件、ココサロン http://www.int-acc.or.jp/coco/main_sitemap.html にゆく前に少し、いろいろな事をお話したいので、まずは、恵比寿駅の東口でお会いしましょう。駅を出た所のすぐ近くに喫茶店がありますので、そこで1時間位~それから向かうことにしましょう。駅から5分くらいですから。

最長のメールかも知れませんね。 ・・・・以降、手短にします。

それから、また、お願いで恐縮ですが・・・・Meのことは、ロイ、もしくはロイさん位の呼称でお願いします。気楽にいきましょう。

Have a nice trip back-sweet home, Tokyo and hoping to see you soon .........

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(10) Chii さん

お早うございます。

折角の帰省がお子さまの看病で・・・でも、幼児を持つことの大切な日課ですね。3歳児頃までは様々な、思いがけないケアーの必要性が発生するのは常にこころしておかなくてはなりませんね。

小生の2人の子供達も幼少を海外で過ごした事もあり、日本以上に大変な思いをした事を思い出します。 楽しんでお子さまとの日々を大切に!

Chiiさんのブログで予告のありました、「魂の島・ヨロン島」を観させていただきました。Chiiさん一家のスナップ&浜下りの紹介も、あらためてヨロン島の伝統文化の息吹の一旦を知ることができました。そのような島文化や癒しの島としての古き良き文化を若い世代も積極的に受け継ぎ次世代への伝達を心がけてくれるといいな、なんて思いました。

そういう点で、Chiiさんや同じような意識を持つ島内外で共感しあえる一人でも多くの方々が英知を結集し、具体的なかたちへと昇華・結実させて行けることを願っています。その輪の中に、小生も何らかの形で、寄与、協力できれば良いななんてことも・・・・

また、機会を見つけてお会いし、それぞれに想起している事柄もお話しましょう。 

残暑とはいえ、これからが夏本番・・・健康にご留意下さいね。

ロイ

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(11)
Chii さん

お子さまが熱で、心配ですね。 夏風邪でしょうか?

1才未満児の夏風邪は特に要注意です・・・気を付けて看護してあげてくださいね。

アポイントの件は、また、Chiiさんのご都合の付けられる折りにご連絡頂ければ、極力、時間を合わせるように致します。Never worry about this at all.

お子さまにとっては、初めての夏体験(ママにとってもかな?)大変でしょうけれども、Chiiさんなら、クリエイティヴに楽しく乗り切れるものと推察致します。

また、お会いできる時を楽しみにしております。

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(12) 2005年9月5日 22:13(最終交信録)

Dear Chii-san,

今晩は、Chiiさん。 ・・・もう、秋。。。!

今夏は無事、お子さまと乗り切ることができましたか?良い夏の思い出を花籠いっぱいストアアップされたことを祈念致します。

つい3日前、小生がハワイでポリネシア文化センターでのイベント企画を共同主催しておりました、日系3世のキャシー香川さんと六本木で話しをする機会がありました。年に数回ほど、来日しますが、今回は世界平和フォーラムへの出席・・・本業は、5つほどの不動産及びメンテナンス関連ビジネスの会社を束ねる社長業ですが、名誉的なボランティア業も多々・・・

・・・香川女史にヨロン島の話しを、雑談の流れの中で致しました。オンリーワンの島作り、ギリシアイメージからの脱皮の必要性・・・小生の持論と一致するところが多かったのですが、それを可能にする島民の意志の在り方・・・そして、経済的自立と発展への行政および島民有志の意志力・・・ それが総ての解決策へのゲートウエイ。

それなくしては、島の再生は、自己陶酔のオンリーワン幻想に翻弄されるのみ。 どこまでの再生と発展を希求するかは、磨かれきれずに惰眠する島の自然の魅力と、伝統文化と・・・島のこころをいかに融合させるか・・・その策なくしては、個々の活動の範疇でのマスターベーションに近い・・・・そんな気がいたします。 

Chiiさんは、その後、どのような再生への道へ近づけましたか? いつか、あなたの、聡明な展望を聴かせていただけることを楽しみにしております。

10月に、ヨロンへ? もしかしたら、時期未定ですが、小生もその可能性がありますが・・・ バリ島でのプロジェクトの関係で暫くバリへ缶詰になるかもしれません。

Where there is a will, there is a way......
ヨロンの心づくしの、珠玉のような多くの言葉の中にも、そのような言葉や表現があるのだろうか?

Chiiさんにとって、新たなヨロンとの出会いや導きが有りますように・・・

ロイ

(終わり)
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★ヨロン島再生交信録 (1) [ヨロン島]

ヨロン島関連ホームページをサーフィンして、ふと、あるブログに目が留まった。 「ヨロン島リバイバル計画」~自然再生と観光を共生するヨロン島の取組みと題するブログである。何とまた、刺激的で大胆なプロジェクトタイトルでブログを立ち上げたもんだ!

早速、運営管理者のChiiさんへメールを送り、いくつか質問をしてみた・・・以下は、その最初の頃、そして、最後の辺りまでを筆者からの送信記録に限定し、掲出している。 

ヨロン島を愛するが故に、情熱とあこがれの滾りに翻弄され、現在は、残念ながら時の流れに身を任せ、再度チャレンジできる時と機会を待っている・・・ Chiiさん頑張れ!

=============================

2005年7月7日 7:41
ロイさん。

ご連絡遅くなりすみませんでした。

先週末から我が家では、ちょっとした風邪が流行っていまして、なかなかPCに向き合う時間が取れず、失礼致しました。(昨日あたりから、回復したようなのでもう大丈夫です)

明日は恵比寿東口に15:00に伺いますので、よろしくお願いします。 以下、どちらか教えてください。
★2階改札口(ガーデンプレイス通路に繋がる2階のほう)
★1階改札口(モンベルが斜め前にある地上改札口のほう)

着きましたら、携帯でご連絡させていただきます。

===<以下は全てChiiさんへのメール>===========
(1) 2005年6月28日 10:29 (最初の頃のメール)  Chiiさん

お早うございます。

風邪一過、大変でしたね。 今しばらく、ご自愛を!

Chiiさんからのメールを開封する前に電話をしてしまったようです。
Sorry for this up-side-down order contact......!

以下、確認まで。

7月8日(金)午後2時、JR山の手線の2F東口改札口、ガーデンプレイスへの出口です。では、明日・・・

ロイ
***************************

(2) Chiiさん

こんにちは。

静岡は台風の直撃コースのようですが! 大丈夫でありますよう。

返事が遅れした。 Sorry for this.

ご多忙なスケジュールの中、時間を割いて頂いて有り難うございます。 ご提示の8/2(火)11:00~13:00で、軽いライチョンを挟んでいかがですか? また、恵比寿でお会いしましょう。 Chiiさんの所から近い方が良いでしょうから。 

ココサロンの近くにアジアンテイストの人気レストランがありますから、そちらでいかが? 11時30分にJR東口2F改札出口で待ち合わせ。

では、また・・・

**************************
(3) Chii さん

こんにちは。 メール有り難うございました。

Chiiさんの忌憚のない意見や提言等、ヨロン通信を楽しませて頂いております。今後もそのスタイルで発信を希望致します。 また、諸事、あなたの計画や予定等が整いましたら、ネット販売の件も含めてお聞かせ下さいね。 

リンクの件、ご了解をいただき有り難うございました。

取り急ぎ、ご連絡まで。

****************************
(4) Dear Chii-san,

今、新宿から帰りました。 夜、遅いメールは気にするようですか?

中には10時以降のメールを嫌う方もおりますので、最初にご確認まで。 ちなみに、小生は24時間?稼働(30国余のホテルや学校との交信がの要があるためですが・・・・当方の「民間大使交流会」 http://www.minkantaishi.org/  関連の交信)みたいなもので、いつでも当方への送信は結構です。

さて、Chiiさんと、東京で会うことが楽しみになってきました。?で・・・30数年ほど前の自分にオーバーラップするようなChiiさんの姿が懐かしい・・・プリシア http://www.pricia.co.jp/ の前身のホテル一つと灯台のみの景色と全面に広がる東シナ海・・・そして水平線上に横たわる伊江島のシルエットを心地よい潮騒をBGMにヨロンのプロモーションの構想を巡らし、胸躍らせていた頃を想いだしたこと・・・

そうこうしているうちに(運命的なものを感じますが)ミサワホーム社長との出会いからプリシアリゾート構想+小生のそれまでにバリ島リゾート開発他で培ったリゾート開発プロジェクトで走り回ったこと・・・用地等買収や地元対策で翻弄されたこと・・・

意気軒昂なヨロン青年との観光開発推進の是非で大論議したこと・・・その後のヨロン島リゾートホテルの代名詞的になるまでのプリシアの旅行社各社への推進に駆け回ったことetc.....

ただ、Chiiさんのように、ヨロン島の島民や地域社会の側の見地からの島の心や文化、社会の経済、自然環境の保全や推進等への視点の移行と実践までには至りませんでした。むしろ、私の関心は既に海外にありましたので、プリシア稼働後にはほとんどヨロンとの関係は加速度的に薄れていった事実があります。・・・・

そのように、薄らいだ幻影を再び脳裏に喚起させてくれたのは、悠遊クラブの構想に着手した5~6年程、前のこと、そして、より強い思いを巡らすようになったのは、つい
昨年末にヨロンに傾倒している方にであってから・・・でしょうか? そして、より、強く精力的な取り組みをされてきているChiiさんのことをごく最近知ることができ、本当に奇縁を感じます。 

不思議ですね・・・ たぶん、以前にもChiiさんの「与論島通信」は読んでいたと思いますが、なぜか以前の事はまったく記憶に残っていません。しかるべきと・き・に意識が向いたのでしょうか・・・ これぞ「尊尊我無」のスピリッチュアルな、何かが作用したのでしょうか?・・・ 回答は留保しておきましょう。

以前、ケントデリカット(TVタレント)氏と英会話学校を共同経営(ケント国際学院)していたときに、大崎(ソニーの脇)に事務所を構えておりました。Chiiさんも近辺にはなじみがあるのかな?(上大崎が住所ですよね) もっともスクールは渋谷駅前の東急文化会館横でしたが・・・

8日(金)曜日は、午後3時にJRやまのて先の恵比寿駅・東口の改札を出た所で待ち会わせ致しましょう。 なぜ、恵比寿? 与論に関心のある企業が経営する事業の1部門(ヒーリングサロン他健康食品取り扱い)でココサロン恵比寿(インターネットでもすぐ検索できます)をご紹介ながら、まず、Meといろいろとお話を致しましょう。 

当方の会長が、当日は午前中でないと無理なスケジュール、それに、事前にMeの方でChiiさんとお話をしてからの方がよりよい展開ができると思うからです。

気楽に、いろいろな事をざっくばらんにお話ができればと考えております。
So, just take it easy on meeting, ok? 英語は?

****************************
(5) Dear Chii-san,

先日は、わざわざお忙しい(子育てetcccc)のに遠方から時間を割いて頂いてお会いいただき有り難うございました・・・

demo,たまには用事に託けて東京の里帰りも良いかもしれませんね。あなた自身のしばしのときも必要ですね、きっと。

短時間にいろいろなお話をさせていただき、多少、混乱気味だったかも知れませんね。気軽にお会いして、お話できる環境ではありませんので、その点をご斟酌をいただければ幸いです。

実際、Chiiさんにお会いして、第一印象は、あなたなら、将来いろんな形で、ヨロンの中に新たな息吹を与えてくれることができそうだな、そして地域の方々に融合し共生ができる方、そんな思いです。 いまは、少し時を待たなくてはいけないと思いますが、ゆっくり急がず、焦らずに、Chiiさんならではの創意と情熱でもって取り組んでみてはいかがでしょうか。陰ながら、可能な分野や資力で応援致します。 

お会いしたときにお渡しいたしましたDVDについて、その意図なりを若干、誤解・ご不審の無いように補足説明しておきますね。

1)グリーンツーリズム(英国)
基本的には、その地域に在る、伝統や工芸、そして、地域のホスピタリティマインドを組織的、系統的にプログラムし、推進して行く事により、より深くその地域を理解し、愛されていくような地域住民と行政の一体化した観光産業の創生へのヒントとなると考えています。

洋の東西を問わず、田舎の景観やその地域の人々は、心優しく、基本的にはホスピタリティマインドに溢れていると思います。なかんずく、Chiiさんが感じられているヨロンの地域の方々がより一層、そうであるならば、それがより多くの来島者へ訴えるようなPRや地域行政あげての具体的な取り組みを推進すること。すなわち、観光関連事業に従事する方々のより、刷新された取り組みが必要ではないでしょうか? 単に心やさしいだけではなくそれが、より具体的に来島者に見え、感じられ、感動体験となるような
プレゼンテーションやプログラミングが必要ではないかと考えます。

地元料理を民宿や公民館で、観光客を中心に(地元の方々にも開放)デモンストレーションしたり、伝統芸能を単に年1回?披露するのではなく、1週間に2~3回、それぞれの部落の集会所やホテル等で公演したり、かりゆしが独占的?に演奏しているような、伝統音楽を地域の方々が島の至る所にある公共の場所で演奏活動をし、そこに観光客や
地域の方々が集い、感動の時を数多く共有できる場を設けたりです。

また、ヨロンがいかに狭いからといって、始めての来島者にはヨロンの良さを堪能できるほどの地理的、スポット的な知識があるとも思えません。ボランティアのガイド(中学生や高校生、時間的に余裕のある老若男女)やプロガイド(可能であれば)をある程度プログラミングされた研修の元に育成し、実践活動の場を提供していくこと、その事も大きくヨロンの正しい理解や、リピーターにつながるような大きな要因となって作用していくものと推察されます。本当にヨロンの良さが伝わるようなシステムの構築と実践・・・いろいろな事ができそうです。

そのような事がヨロンをより大きな世界へと繋いでいける、感動の架け橋になるのでは無いでしょうか? 小さな島であればあるほど、島民の結びつきは深く、強く、そして、それだけ、はたから見れば人々の温かい交流と絆を感じることができるのでしょう。その事をガイド一人のサポートが、より多くの観光客へ深い感銘と体験、知識を与えてくれるものと推察します。 このガイドシステムは日本の南国島を代表するヨロン島
がオンリーワンを喧伝する上で、不可欠な要素、もうひとつ大きくその名前をより多くの方にアピールするメッセンジャーともなるのではないでしょうか。

2)ハワイ・ポリネシアン文化センター: http://www.polynesia.com/
とにかく1日中居ても楽しく、感動的で時間を忘れてしまう楽園・・・それがポリネシアン文化センターです。 この園は、ハワイ諸島を含め、小島で成り立つポリネシアの民家、芸能、人々、音楽、ワークショップが中心となり、また、昼と夜に大きなショー(伝統的な音楽、歌、踊り)が展開されるプログラムです。 

小さな子供からお年寄りまで感動の連続です。なんと、ここを運営しているのは、殆ど、モルモン財団が運営する近くの大学の学生達で実施されています。  ショーステージを除き、建設費も大してかけていません。 

不要と思われるようなヨットハーバーや大幅は海浜改造工事(100億円前後・・・と聞いています!)に費やすお金があれば、将来に大きく貢献でき、かつ、その数十分の一くらいで実現できるような、上記のような観光エンタテイメント楽園を創設し、地元の老若男女や島外で帰郷できずに(ヨロンでの就職難)いる、数多くの与論帰郷願望者達の活路とPRの場を創生すべきではないでしょうか?

実は、このポリネシアン文化センターと小生は関わりがあります。このショーダンスをすべて取り仕切っている日系ハワイアンは小生の知人。このPCC(ポリネシアン文化センター)のノウハウはすべて小生にあります。すぐにでも与論でも行政にその気があれば数億円単位で開園が可能と推察します。(もっとも与論町の地所を活用できることが
前提ですが) 

どうでうすか?Chiiさんひとつ考えてみてください。あなたの意見でまずは、プレゼン資料を作成し、町行政に提案し貴女が推進役、小生他が支援致します。 そのような将来企画のための参考資料として作成してあります。

3)もうひとつは、与論島の特産品のPRとChiiさんのとりあえずの活動資金に寄与できるかもしれない商品販売(ネットベース他)への取り組みのサイド支援(先日、ご一緒しましたココサロン=株和光)をしたいと考えております。 http://www.wako100.com/  あくまでも、貴女のビジネスとしての支援です。 和光へ貴女が販売可能な商品取り扱いを交渉します。

それには、Chiiさんと現地の製造元との事前の話し合いが必要です。・価格・納期・ロット他  お忙しいとは思いますが、そのような基礎情報だけでも早い時期にとりまとめておいてはいかがでしょうか?

貴女が「和光」に対しては総販売窓口となれば良いでしょう。和光だけでもかなりの会員になりますから、ちゃんとした商品の取り扱いやサプライができれば、悪くはないと思いますし、より多くの方に与論&その特産品への関心度を高めていける良い機会と考えます。

特に、最近テレビでの紹介がありました、黄金酢 http://ogo.269g.net/article/456662.html や、もずくそば、ジネン等は取り組み安い(和光にとって)商材といえます。 是非、トライし、ある程度の条件が整えば、再度、東京にて担当者(吉川室長)を通じて
成約の方向へ進むようプッシュします。  

また、ココサロンは将来当方のプロジェクトが現実的になった段階で、与論進出も念頭に置いています。アロマ、タラッソテラピー他、与論スタイルの美容療法も人気がでるかもしれません。そのような道に新たなPRの方向性をこれから模索を始めることも・・・まずは、一人でも多くの地元民に関心を喚起!

最後、長くなりましたが、当方のプロジェクトもHPGでもリニユアルアナウンスしてありますが、2~3年後を目処にできるだけ多くの方が共生できるような集いと生活の場を念頭に具体的に検討を内部で開始致します。

そのプロジェクトの一員と、たとえば、居住棟やショップ(他)スペース等のプロモーションエージェント(推進員)として、是非、Chiiさんにもご協力をいただき、一緒に、楽しく意義のあるコミュニティスペースの創生に参加をお願いできませんか? 十分なスペースを貴女にも確保し、様々な情報発信や交流の場にできればと考えております。

以上、非常に長くなりましたが、文字の方が意図を伝えやすい事もあり送信します。 今後は、テーマごとに、一緒に考えていけるようにしたいと思います。

小生は、現在、都内3カ所で年内に大型開発を着手すべくその諸準備で、てんてこ舞い!状態ですが、努めて上記の件ではChiiさんと一緒に実現へむけて楽しんで参加できればと考えております。

その他、お気軽に交信下さい。 では・・・・

(続)

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「十九の春」♪ ルーツと変遷史 [音楽]

「ああ、・・・そういう事だったのか!」 

長い間、脳裏の片隅で、おぼろげに疼いていた素朴な疑問が一つ氷塊した。 

今朝、NHK(BS2)で、「十九の春」 の変遷に関する番組が放送された。 実に、胸に熱い閃光が走ったようであった。 「十九の春」には、なんと百余もの歌詞があり、それぞれに人や地域によって違った歌詞や節回しで唱いい継がれていることが判明、納得した次第。

思えば、このタイトル「十九の春」・・・、恥ずかしながら、筆者は40代の前半で、ようやく知り得た曲名でもあった。 そもそも、記憶していた歌詞と、その後、サンシヌ片手に詠唱されたヨロンの長老の歌うそれとは、まったく異なっていた。 

・・・「あれ! そんな歌詞だったんだろうか?」 ビデオ収録中の片手に、少し力がこもり、頭の中の整理が付かなかった。 

メロディラインはほぼ、記憶通りであるが、歌詞が違っている。 ・・・歌い終えるまでの歌詞が全く違うのだ。 筆者の記憶する「十九の春」の歌詞は、「♪この葉みたいなヨロン島・・・何の楽しみ無いところ・・・好きなあなたが居ればこそ・・・いやなヨロンも好きとなる・・・♪」と続く。

しかし、今日の番組で、その謎が解けると同時に、大きな驚きと「十九の春」に纏わる幾多の苦難の歴史にヨロン島の悲しい歴史を垣間見ることができた。 そもそも、この歌は、てっきり沖縄民謡の一つであると筆者は錯覚・誤認してきた事実がある。 まったく島音痴であり、音楽に少なからず造詣のあることを自負しているものとしては、恥ずかしい限りである。

100余年の歴史のある「十九の春」は、ヨロン島を離れ、それぞれの数奇な運命に翻弄されながら漂流するヨロンの数多くの民を救ってきた事実がある。 それだけでなく、この運命の天使の歌は九州、奄美大島、沖縄と散住するヨロンの民を介して、それぞれの地で地域の民に、新たな命と救いの息吹を吹き込んでいった。 

そのような流転の歴史とともに、唱われる「十九の春」の歌詞は、それぞれの地で変転し、創作され、より深い魂の叫びとなって歌い継がれていった。 ときには、悲哀歌、ときには鎮魂歌、そして、あるときは賛美歌のごとく様々な苦境の狭間におかれた民の救済歌となり、営々と歌い継がれて今日に至っている。 

「十九の春」は命の滾りを彷彿させる歌で、原曲のラッパ節をメロディや歌詞ともに全く違った歌に変容させてしまった。 その歌を創作、伝播させたのは、まさに、変遷流転の荒波に揉まれ苦しみ続けてきたヨロン島の民であった事実を改めて知る。 

ヨロン島の島外に於いて漂流・流転して行った歴史を語る悲哀の唄として、幅広い地域と人々の心に浸透していった魂の唄であるとも言える。 ヨロン島の誇りであり、重要無形文化材と言っても過言では無いほどの文化・芸能資産として再認識、評価されるべきではないだろうか・・・

太平洋戦争の最中、奄美大島沖合で嘉義丸「かぎまる」と共に、海底深く海の藻屑となって眠ることになった数多くの一般市民への鎮魂歌ともなった。 

その慰霊鎮魂を重ねてきた、奄美出身の朝崎郁恵(あさざきいくえ)http://www.asazakiikue.com/ さんは、その唄者・・・ 無念の涙を十九の春の旋律に乗せて流し、犠牲者の霊を鎮める。 必死の思いで生存した沖縄の乙女は既に80余才・・・ そして、遭難直後に生まれた彼女の娘を、鎮魂の地に呼び寄せる十九の春のメロディー。 

胸に迫る強い哀愁と悲哀と悔恨が聞く人の心にこだまして途切れない。 今なお、多くの人の胸の奥深くに宿り消えることがない。

ときは移り、いま、新たな「十九の春」は時代の流れを映し、苦難や悲哀の色を変容させながらも、新たな命の息吹を吹き込みつつあるようだ。 

「長寿の華 多くの人々と手を握り クラブで共に語るなら 万古長寿の花が咲く 心も体も若返り 大きな長寿の 華の咲く」、と続く。 

平和な世相を映した安らかな歌詞に変容している。 石垣島に渡り、今は高校生の間でも、新たな平和な世の中(ゆがぷー)を希求する歌として、慣れ親しまれ歌われている。 そして、若人の唇には新たな希望と明るい明日を、その旋律に乗せて翔び立たせる。 「島の自慢を並べたら 数えきれんさ星の数 ・・・ 私の長所を並べたら 星の数ほどあるかしら・・・」 

何とも嬉しい時代の変遷を感じさせる唄となった。 かつて、悲哀の涙を拭ってくれた唄が、真に求め続けてきた唄心の投影かもしれない。

ただ、「十九の春」の歌が17才の若き乙女「アケミ」に「ジュリグラー小唄(女郎の歌)」として、避けることのできない悲運を込めた歌として歌わせた事実が有ることも総ての人々が心に深く、銘記し熟慮すべきではないだろうか。 

「見捨てられても 私はあなたに 未練は残しゃせぬ・・・ 白菊ぼたんよりも まだまだ 立派な花がある」。 切ない思いで聴くこの唄は、胸を裂くほどの悲哀の歴史と現状を訴えてくる。 あっけらかんと彼女の今を語る口元には、しかし、言い得ぬ寂寥感が漂い逃れることのできない運命の呪縛を伝えていた。

絶望の中でも、可憐に生きていた。 いや、現在でも、まだ依然としてその世界が沖縄には現存する事実を正視すべきである。  とくに、この唄が沖縄で深く根を下ろし歌い継がれている事実がある。戦前、戦中、そして敗戦後の惨憺たる社会の底辺に悲しく生きながらえながら、「十九の春」を支えに生活している多くの島人達がいる現実を、どう理解したら良いのだろうか。 

いま一度、総ての日本の民が「十九の春」の心の原点に立ち返り、人間としてなすべきことを熟慮すべきときではないかと考える。

幾多の苦難を抱えたヨロン出身の民が創作し、明日を生き抜くための灯明とした「十九の春」は福岡県の三池炭坑で生まれ、満州、鹿児島、奄美大島諸島、沖縄本島や石垣島他、数多くの島々へ、それぞれの地域風土や歴史に翻弄され同化されながらも唄い継がれていった。 そして、時代やその環境に応じて自在に舞い踊っていった変幻多様な旋律と歌詞・・・ 

「十九の春」は、そんな運命の荒波の激流と共に漂流し今日にに至る。

「十九の春」・・・ 数奇な運命を辿ってきた、この歴史的な悲哀歌。 きっと、これからも様々に変容し、歌い続けられて行くことを予兆する。 明日は、どこで、誰によって、そして、どんな風に、聴く人々の耳に届き、伝播して行くのだろうか。 

きっと、数多くの後生の人々に明るく、力強く生きる命の灯明となる。 そして、永き世に渡り、歌い継がれ、赤々と心の中で生命の灯火となり燃え続けていくことは間違い無いだろう。

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★希望者には放映された番組(NHK-BS2)のDVDを個人鑑賞を目的とする場合のみ、
メディア代金+郵送料合計:360円分の切手をご負担・送付頂ければ、無償で郵送致します。 

●お問い合せはEメール: pweinc@world.email.ne.jp へお願い致します。

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