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★Hi! QP....(やあ、坊や!)♪ [ヨロン島]

"Hi, QP!"............ どぎまぎしながら、のろのろと思案気に歩いていた小さな男の子に、反対方向から歩いてきたアメリカの水兵さんが、にこやかに話しかけてきた。

                       

びっくりするくらい背の高い、カーキ色のアーミー服の栗毛の米兵と、その首辺りの高さのセーラー服姿の水兵さんの二人が、進行方向から小学校2年生の坊やに迫っていた・・・雨後の道路の窪みに出来た、大小のプールを避けながら、お互いに、一本しかない細い道筋でかち合ってしまった。

「まずい、どうしよう・・・?」と思案する男の子に、道を譲ってくれながら、大きな笑顔でどうぞ・・・って米兵達が、親切にも男の子を先に通してくれた。 QP・・・?キューピー・・・思えば、筆者が、始めて耳にし、鮮明に覚えている言葉、英単語はこの言葉である。 二人のアメリカ人は、何やら大きな声で談笑しながら、茶花の町中へと伸びる、できたてにも関わらずでこぼこだらけの道を、ゆっくりと去って行った。

このQPの意味するものが何であるか・・・そのときは、知る術もなかった。 ただ、鮮明に強烈に記憶の隅に刻み込まれた。 この言葉が何であるのかは、大分年数を待たねばならなかった。Cupidの意味で、まあ、そもそもの語源はさておき、小さくてかわいい坊やくらいの軽い意味で使われている。 遙か後になって、東京で始めて「QP」食品のトレードマークにご対面し、「はは~ん!なるほど」と頷き納得することになる。

ん・・・アメリカ人の大男達からみれば、まさに、小さな坊やで、彷徨きながら顔を赤らめてはにかんでいる男の子が、そのように映ったことであろうな・・・回想しながら、ほくそ笑んでいる。

ともかくも、この言葉の強烈なインパクトと二人の異人との、一瞬の出会いと交錯が筆者の異国への強いあこがれに近い感情の渦を巻き起こしたように思う。 その後、父から戴いた海外ジャーナルに、たまたま南米移住の日本人の生活やペルーのチチカカ湖、そして、アンデスのインディオの生活の様子を伝えるカラー写真が多く掲載されており、毎日のようにそれらを、飽きることもなく、眺めながら、遠い地を夢想していた記憶は、いまだ消えずに脳裏にとどまっている。

そのとき、子供ながらに強く決心をした事がある。 絶対にチチカカ湖に行き、トトラの葦船にのり、インディオと一緒に漁をすること。 そして、リャマの乳絞りとチーズを作って、腹一杯に食べること!卑しいこともあるが、本物の牛乳から作られたチーズ等見たことも、臭いを嗅いだことも、また、食べた事もなかった。 ただ、雑誌広告では見たことが有った。 いかにもお餅・・・なんで、こんなものが、乳から作れるのだろうか? 大いなる疑問に悩んだ記憶がある。

ただ、漠然とシェーブルチーズ(山羊のチーズ)と同じようなものだろう、と決めつけていたが、山羊のチーズなんて食べた事も無かった。 また、そのミルクだって、ほんの数回ほど飲んだ事を覚えているにすぎなかった。 それでも、まだ、牛乳よりも山羊のミルクの方が身近であったし、リャマは見るからに、山羊に似ていることから、そんな風に考えたのかもしれない。 

・・・・まあ、いずれにせよ、子供の心とはそんなもの・・・いまでは、懐かしい夢想の世界が広がっていたことを覚えている。 しかし、まだ、南米の地には残念ながら、足を踏み入れた事が無い・・・

思えば、その当時は、盛んに巡回映画が無料で上映されていた。 そして、ブラジル、ペルーやチリなど、南米各地に移住した日本人の生活ぶりを盛んに紹介していた。 車に満載された、果物や野菜、そして、その時にはアロマさえも分からなかった赤や紫色等、様々な天然色に熟したコーヒーの収穫の様子など、異国への強い移住願望を促すものであった。 筆者の心の奥深くに、ますます、南米への憧れと、はやる心の熱い思いが刻み込まれていった。

・・・しかし、ときは流れ、次第に筆者の心は中南米社会から西欧社会のそれへと移って行った。 大きなきっかけは、フランダースの犬の物語・・・オランダに於ける伝承的なお話にひどく、感銘を受け、その背景となる、国や人々への関心が急速に膨張していったことによる。 ・・・そして、決定的な関心の転換は、英国を代表する風景画家「ターナー」の作品との出会いであった。 

・・・筆者も、小学生の頃、風景画には、そこそこの才能と天分を評されたことがあった。 鹿児島県の絵画コンクールにも数回ほど、入賞した経験を持つ。 そのような、事もあり、また、英語という異国言語への精通度も高まって来たおり、さらに、より多くの英国文学との出会いが英国へ強い傾倒を決定的なものにした。

シェリーの「秋風の詩」や、テニソン、ワーズワースに代表される桂冠詩人(湖畔詩人とも呼ばれる)の描き出す英国の田園風景にひたすら想いを馳せ浸っていた時期があった。国中の丘陵を縦横に走る運河(キャナルネットワーク)や、その絵画的風景を背景にした古城や瀟洒な藁葺きの田舎パブなど、まさに、異国情緒豊かな風景や文化に恋いこがれていった時期でもあった。 とりわけ、中世の演劇や文学には綺羅星的な作品が多く、それらの息づいている街への憧憬が日に日に強くなって行ったことを鮮明に覚えている。

 

ずっと、後の頃の話となったが、皇太子時代の天皇家の裕仁親王も、モードリンカレッジで、中世の運河とその役割を研究のテーマとされた。 一体、皇太子様はその研究の成果がどのようなものであったか、一度は拝見してみたいものであるが・・・ 聴くところによると、日本の江戸時代の頃の通船堰の役割との比較を含めた、流通網の整備の重要性について、数多くの興味ある論文となったらしい。 

イギリスには、いまなお、数多くの水路網が残り、現在では産業用というより、レジャーへの寄与度の方がはるかに高くなっている。 即ち、運河旅行を楽しむイギリスの方が多く、格好なスローライフ&レジャーの場所を提供している。 キャナルボート・・・イギリスの典型的な風物詩ともなっている。

・・・ <閑話休題> ・・・・・・・・・・・・・・・・

大阪系の某大手英会話スクールでの経営、教職を経て、念願の英国大学への留学を実現してからは、諸外国との様々な交流活動へと一気に流れていき、今に至る。 英国での生活は、ともかくも、進むべき人生の羅針盤を英国流に固着させてしまった。 いまだに、その方向を変えることが出来ない自分に気づく。 

それだけに、筆者にとっては、意義の深い様々な事を学んだ数年であった。 人間が人間らしく生きるとは何か・・・様々な評が飛び交う英国人気質や文化性など、何層にも織りなす英国社会の奥深くに浸透し、その襞に到達するには、余程の覚悟と年月を要することも分かった。 貴族の行方・・・この持つ意味を理解する事無しには、とうてい、英国社会の真の社会やこころは理解し得ないであろう。 日本には、まず、存在皆無であるから、なお、難しい。 

英国文化振興会(通称ブリカン)の給費留学生として、その当時は、まだ、英国大学への留学が非常に難しいとされていた頃であるが、幸運にも、約2年半の学窓を経験する事が叶った。オックスフォード大学のワドムカレッジ(Whadom College)を学究活動の本拠とし、リーズ大学及びブリストル大学、そして、ロンドンのIHロンドン国際英語教師訓練所での研究活動の機会が得られたことは、今ではもう夢の時代に近い。 ちなみに、IHは世界30数カ国にネットワークを持つ国際的な英語学校で、その教員訓練所には、世界の英語教師が馳せ参じる。 日本の6大都市にも、その学校網が拡がる。

        

              (ウオドムカレッジキャンパス正面前にて)

学究活動のテーマは中世英語(シェークスピア時代)の英語の近世への変遷史・・・平たく言えば、昔の英語が今風に変化していった英語の変化する歴史に関する研究である。 詳細は省くとして、いまや、英語は米語と様々な点で遠く乖離し遊離し、更にその2言語の隔たりは手の届かないほど違う言語となってしまった現実がある。 合理的な言語である米語と理念的な趣を内包する英語は、その2国の国民性の典型的な差異を、如実に現わしているといっても良いだろう。

・・・ひとえに、英国留学の夢の実現に多大な支援を戴いた方は、東京都内にあるS大学の米国人講師で、長年の滞日経験を有するマイク教授の、強力な推薦文も大きな要素となっているものと推察する。 教授はアフリカ系米国人であるが、アメリカ南部の魂の塊のような、心優しく、正義感にらんらんと燃えて教育に情熱を注いでいた。 マイク氏は、また、バプチスト教会の伝道師でもあった。 

正式な名前をマイク・フーザー(和名、真育風座)と言う。 著書も多数あり、その教育姿勢には、異論を唱える人もいたが、師の内面へのいざないを深くすればするほど、その和名(真育)の意味が、より現実感を帯びて迫ってきたことを覚えている。 感謝の限りである。 米国南部アトランタに熱い風が吹き渡り、タラの地が焦土となった。

・・・その熱い思いが南部黒人の間には、脈々と流れているのかもしれない。 マイク氏のその思いを強く感じることが多かった。 ヨロンに縁を持つ故森瑶子女史にも、その強い想いが、共存していたのかも知れない。泉下に旅立つ間近な時期に「風と共に去りぬ」の和訳を完遂したことの因縁。そして女史がこよなく愛し終の住処とした与論島・古里の地・・・

ヨロンと米国南部とを繋ぐ何らかの絆が、筆者との因縁を感じさせる。 いまは、そのマイク氏も故郷の地、米国・ミズーリ州の片田舎で、静かにこの世の平和を願い続けていると聞く。故森瑤子女史の生前に、筆者と女史のご主人、ブラッキン氏とはプリシアリゾートを介しての繋がりを強く持つ・・・見えざる神の手による縁結びを実感することが多い。これを奇縁と呼ぶのであろうか。

留学時代に、個人指導教官との歓談のおりにヨロン島について話をすることがあった。 英国は、北緯40度以北、日本で言えば、青森県と同緯度から北に在る国。 その国や住人にとっては、珊瑚礁に囲まれた南国のパールアイランドなどは夢のような環境に等しい存在である。 その魅惑の島「ヨロン島」の話の間、教官の目が、食い入るようにキラキラと輝いていた。 

彼の名前はスチュワート・アトキンス。 そして、イチョーキ長浜と、「ある男の子供のエピソード」を語って聞かせたところ、WHAT A LEGEANDARY SOTRY! (なんと、おとぎ話みないな!) と驚嘆、奇声をあげたことを、いまでも明瞭に覚えている。 

無垢の砂浜と珊瑚の群生を撮し取った数枚の絵はがき・・・まさに、彼にとってはトレジャーアイランド(南国の宝の島)に写った。 

それから、数年後、その教官スチュワートは、JET PROGRAMのAT(英語補助教員)として来日し、四国の高校で3年を人気を満了し、その後、劇団「ZA GAIZIN(外人座)」(日本の様々な文化の局面をとりあげ、演劇風に風刺した演劇を主催しNHK等でも良く紹介された・・・)を数名で旗揚げし、一躍、一世を風靡することになりなった。 同時に、日本の古い伝統文化、伝承物語等の海外普及にも精力的に貢献していった。 

最初にレコーディングされたカセットテープは、筆者に記念の品として贈られ、いまでも、カセットラックにコレクションされている。 ヨロン島を仲立ちとして、彼の来日があり、そして、日本の海外への新たな窓を大きく開放してくれた。

-----<閑話休題>------------------------------------------
余談ながら、筆者の英名はスチュワート先生の従姉妹嬢によるもの。 アフタヌーンティに呼ばれて先生宅へお伺いしたおりに、私の和名 "NAOHIRO" がとても覚えづらい!との話から、いろいろと候補を出してみた。 渡英前の日本の学校では"HIRO(HERO)"のニックネームで呼ばれていた。 しかし、このNNにはいささか違和感と抵抗があった。

理由はHIRO(ヒロ)があまりにも安直(ナオヒロのヒロ)でしかもハワイでは余りにも陳腐すぎて好きに慣れなかったこと。また、真珠湾攻撃の対象地となった地域の個人名や地名にもこの名前が多く、反日感情を喚起するイメージが強かったこと。
 
また、時の昭和天皇の名前が「裕仁」で、この名前も英米人にはHIRO(HITO)として連想する人が多かったことで筆者自身にも、ある種の嫌悪感(裕仁天皇を戦犯と考えるひとも多い)があったこと。 さらに、HIROは概して”HERO”と同音で発音され、何度も呼ばれると、大いに違和感を感じすんなりと受け入れられなかったこと。

以上のような諸々の事由により、HIROに替わる適当な英名を3人で談笑しながら、午後のゆるりとした西陽の中で模索していた事を、つい、昨日の事のように想い出す。思案の果て、いくつかの名前の候補が挙がっては消えていった。

午後のお茶タイムも終わりになりかかった頃、「そうだわ、ポピュラーな英名で馴染みのある”ROY(ロイ)”はどうかしら?”HIRO”を逆読み(RO+HI)すれば"ROY(ロイ)"になるじゃない?!」とキャサリン嬢が提案! 瞬時、納得了解&認証となった経緯がある。
 
それ以来、海外ではロイが本名以上に一般化して馴染んで、今日に至っている。 そして本来の名前"NAOHIRO"はミドルネームとして"N"に変容してしまった! キャシーの母上はフランス・ノルマンディにルーツを持つ経験なカトリック教徒でもあった。

THANKS FOR CATHY! キャサリン嬢はその後、オックスフォードの女子カレッジで中世英文学のフェロー(講師)になったと聞いたが・・・ その後は、ご無沙汰の限りで分からない。
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そして、その好奇心旺盛な英国人スチュウアート(彼は、奇しくも、筆者が通っていたすぐ隣のコーパス・クリスティカレッジを母校とする)を、筆者がヨロンへ招き、楽しく想いで深い数日を共に過ごしたこと、そして、ヨロンを旅行中の東京のOL三人組を仲間に引き入れ、更にヨロンとの親交を深めて行ったこと。 そして、途中から、たまたま単身旅行中ヤンキー青年、マイケル君も加わり、想いもよらないほどヨロンと自然や島民との絆を深めることになった。

3908542.jpg(手前:アトキンス 後方右手:マイケル 後方左手:筆者 中央:3+1人組の旅行者)

彼らの帰京の別れの船出は、想いでのハイライトとなった。 当時は豪華客船と目されていた「曙丸」の弦を埋め尽くすほどのカラーテープの束の中で、岸壁で見送る人、船上のデッキで泣き崩れる彼ら、そして・・・いつまでも尾を引き舞い上がる別れのテープを乱舞させながら去って行ったこと・・・。 昨日の出来事のように脳裏に鮮やかに蘇る。 そんな情緒豊かな別離の記憶を、江が島の桟橋を見るたびに想い出す。 3908545.jpg

いろいろな事が走馬燈のように回転していく。 ・・・彼、アトキンス君・・・ いまは東京6大学の一つ、M大学の文学部(英語)の教授となり、すっかり日本人になってしまった。 また、彼が、ヨロンに戻るときも近いだろう。 アトキンの故郷のバーミンガムよりは、遙かに身近な存在になったヨロン・・・ して、彼の思いはどこに?

思えば、ヨロンはその昔からインターナショナルな素地があったのかも知れない・・・ その名残が、更に裾広がり、拡大して行く事を祈念する。 その芽が様々な視点で、静香に開花しつつ有ることは嬉しいかぎりである。 

所詮、異文化理解の難しさは、この国に関わらず、万国に共通して言えることであろう。 逆も可である。 ソマリア人やイエメン人(単なる例です)が、日本の過度な程に洗練された繊細な食文化を理解することは、不可能の世界に近いと思えることと同様であろう。

異文化論は、さておき、筆者の異文化への憧憬と融合願望の起点であり、筆者に大きな世界への曙とその強い思いを授けてくれたのは、名も知らない二人の米兵であったことは間違いない。

当時、沖縄に駐留する米兵のレクレーションの一環として、舟艇で米兵がヨロン島へ大挙して来襲した事は、珍しくもない事実であった。 その来訪者の二人・・・たまたま、その二人が茶花の町中への用件、好奇心(?)のいずれかは別にして、足を向け、水たまりの間を縫う細い通路が筆者の後生に大きく作用した事は間違いない、と確信している。

レクレーションで来島した米兵達が、旧江が島桟橋で、パンの缶詰(ご存知無い方も多いのでは?)で陽気にボーリングに興じていた記憶も、映像の一コマのごとくスローモーションで再現されてくる。

圧巻は、近所の友人をさそって、彼らの浜辺でのピクニックにも、勇敢にも物乞い(!?)に出かけ、首尾良く、サンドイッチとキャラメル(と記憶しているが・・・)をポケットいっぱいに押し込み、お礼もそこそこに、一目散に立ち去った記憶も鮮明である。 突然の訪問を受けた米兵やその家族達も、さぞかし、びっくりし、好奇心旺盛に応対したのではないだろうか? ・・・せめて、Thank you very much!位は言える知識があれば、さらに、友好の場が広がったのに・・・とずっと後になって後悔しきり。

そのことがあり、立長という地区に棲む、小学生の同級生、初子さん父親が英語が堪能と聞き、非常に尊敬と憧れの思いを抱いていたことがある。 彼女の父親は、沖縄の米軍基地に勤務したことがある・・・とのおぼろげな情報があった。 一度、お会いする機会があれば、是非、そのエピソードなりをお伺いしたいと思う。 米兵同様、唯一、海外への憧憬を深くするきっかけとなった唯一のヨロンの方であるから。

彼らの上陸地点及びピクニックサイトは大抵決まっていた。 現在のプリシアリゾートと江が島桟橋の中間地点にある、小さな湾であった。 多いときには、上陸用舟艇が3隻も停泊していたことを覚えている。 ・・・幼心にアメリカの凄さを実感した瞬間でもあった。

いまは、ヨロン島を代表するリゾートホテル「プリシア」のクルーズボートのベースポート。 依然として静かな美しいたたずまいを映して、この小さな湾が、新たな想い出を創り出すゲートウエイとして機能し愛されている事は嬉しいことである。

・・・それから、遙か時が経ち・・・いまなお、沖縄は様々な米国およびその駐留兵との狭間でもがき苦しんでいる事実が、脈々と続いている。

筆者の、あの異文化への大きな道を開いてくれた良き日の想いは・・・また、再現される日がくるのであろうか。 

・・・また、新たな「QP」の夢を実現して欲しい、と願うばかりである。

★☆★ 木の葉みたいな東洋の真珠「ヨロン島」情報は
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